エドワード黒太子
概要
16歳でクレシー、26歳でポワティエでフランス王を捕えた。騎士道の花と呼ばれ、リモージュで住民3000人を殺した。黒い鎧の名は死後200年のもの。赤痢で父より先に死に、息子リチャード2世が10歳で王になった。
関わったできごと(2)
クレシーの戦いAD1346年8月26日 · 16歳ポワティエの戦い(1356年)AD1356年9月19日 · 勝者本文
エドワード黒太子は、百年戦争の前半でイングランドの軍を率い、クレシーとポワティエで名を上げた王太子である。1330年6月15日、オックスフォードの近くのウッドストックの館で、エドワード3世と王妃フィリッパの長男として生まれた。生きていた時代には「ウッドストックのエドワード」と呼ばれ、「黒太子」という呼び名は彼の死から二百年近く後の16世紀に現れる。黒い鎧を着ていたからとも、フランス人に対する残酷さからとも言われるが、どちらも確かな根拠はない。

彼は生まれながらにイングランドで最も格の高い若者だった。1337年、7歳になる前に、それまでイングランドに無かった「公爵」の位をコーンウォール公として与えられ、1343年にはプリンス・オブ・ウェールズに立てられた。その間の1337年に、父エドワード3世はフランスの王位を主張して戦争を始めている。
初陣は16歳のときだった。1346年8月26日、北フランスのクレシーの戦いで、王子は名目上の指揮官として前衛を任された。フランスの騎士たちの突撃が王子の陣に集中し、危ないと見た部下が援軍を求めると、父王は、息子に拍車を勝ち取らせよ、手柄は彼のものだと言って送らなかった。年代記作者フロワサールが伝えるこの場面は、後に好んで語られた。戦いはイングランドの長弓隊の働きで大勝に終わった。この戦いで討ち死にした盲目のボヘミア王ヨハンの紋章から、三本のダチョウの羽と「私は仕える」という標語を王子が受け継いだという話も伝わるが、こちらは後の言い伝えとされる。翌年にはカレーの包囲に加わり、1348年に父が創ったガーター騎士団の最初の騎士の一人になった。

1355年、王子は南西フランスのアキテーヌへ渡った。ボルドーを拠点に、彼は地中海岸のナルボンヌまで騎馬で突き進み、町や村を焼き払いながら引き返した。シュヴォシェと呼ばれるこの略奪の行軍は、フランス王の領地を荒らして威信を傷つけ、決戦に誘い出すためのものだった。翌1356年、再び北へ進んだ王子の軍は、ポワティエの近くでフランス王ジャン2世の大軍に追いつかれる。9月19日のポワティエの戦い(1356年)で、数に劣るイングランド軍は守りを固めて敵を迎え撃ち、ジャン2世とその幼い息子フィリップを捕えた。フロワサールは、その夜の食事で王子が捕虜の王に自ら給仕し、王こそ今日いちばん勇ましく戦った人だと称えたと書いている。王を失ったフランスでは、翌々年に農民の反乱(ジャックリーの乱)が起きるほど混乱が深まった。
1361年、王子は従姉妹にあたるジョーン・オブ・ケントと結婚した。美貌で知られた彼女はすでに二度の結婚歴があり、王家の跡継ぎの妃としては異例の選択だった。教会の許しを得ての結婚で、本人たちの望んだ縁組だったとされる。翌1362年、父王は彼をアキテーヌ公とし、王子はボルドーとアングレームに華やかな宮廷を開いた。

1367年、王子はカスティーリャの王位を追われたペドロ1世の頼みで、ピレネーを越えてスペインに入った。4月3日のナヘラの戦いで、ペドロの異母兄エンリケの軍を破り、フランスの名将ベルトラン・デュ・ゲクランを捕えた。だが王位に戻ったペドロは約束の戦費を払わず、王子の軍は暑さと病に苦しんだ。王子自身もこの遠征で病を得て、それから死ぬまで回復しなかった。病の正体は赤痢とも、ほかの慢性の病とも言われる。
遠征の費用を埋めるために王子がアキテーヌに課した炉税は、土地の貴族たちの反発を招いた。彼らはフランス王シャルル5世に訴え、1369年、戦争が再び始まる。フランス側の巻き返しのなか、1370年、中部の町リモージュがフランス側に寝返った。病で馬に乗れなくなっていた王子は輿に乗って包囲を指揮し、城壁を崩して町に攻め入った。フロワサールは、男も女も子供も容赦なく殺され、その数は3000人を超えたと書いた。この記述が「騎士道の花」の評判に大きな影を落としてきた。ただし近年の研究では、フロワサールの数は誇張で、殺されたのは守備兵を中心に数百人だったとする見方もある。

同じころ、6歳の長男エドワードが死んだ。1371年、王子は病んだ体でイングランドに戻り、翌1372年、アキテーヌ公領を父に返した。晩年の父王は衰え、宮廷では王の愛人や側近が権勢をふるっていた。1376年の「善良議会」が王の側近たちを弾劾したとき、王子は議会の側を後ろから支えたと見られている。その議会のさなか、1376年6月8日、王子はウェストミンスターで死んだ。満45歳、46歳の誕生日を一週間後に控えていた。父より1年早い死だった。
遺言に従い、王子はカンタベリー大聖堂の、聖トマス・ベケットの廟のそばに葬られた。墓の上には鎧姿の青銅の像が横たわり、その上には葬儀で用いた兜、盾、籠手、陣羽織が吊るされた。いま吊るされているのは複製で、本物はガラスの陳列棚に収められている。墓には、本人の指示によるフランス語の詩が刻まれた。通りすがりの人よ、私を見よ、私はかつてあなたのようであり、あなたもやがて私のようになる、という言葉で始まる詩である。

王位は、1377年に父が死ぬと、王子の次男でわずか10歳のリチャード2世が継いだ。少年王の治世はワット・タイラーの乱に揺れ、1399年、リチャードは従兄弟のヘンリー・ボリングブルックに位を追われる。そこから続くランカスター家とヨーク家の争いを思えば、黒太子が生きて王になっていれば、と後の人々が考えたのも無理はない。勇敢な騎士の鑑として称えられ、同時に焼き討ちと殺戮の指揮官でもあった彼の姿は、中世の騎士道そのものの両面を映している。