人物

クリシュナデーヴァラーヤ

Krishnadevaraya
AD1471年 – AD1529年(享年58・推定)
ヴィジャヤナガル王国重要度 3

概要

ヴィジャヤナガルの最盛期の王。北のスルタン諸国を押し返し、詩人を集め、自らテルグ語の叙事詩を書いた。ポルトガルから馬を買っている。

所属

ヴィジャヤナガル王国

関わったできごと(1)

ヴィジャヤナガル王国1336年 · 最盛期の王

本文

クリシュナデーヴァラーヤは、南インドのヴィジャヤナガル王国の最盛期を築いた王である。ヴィジャヤナガルは、14世紀の半ば、北から押し寄せたデリーのスルタンの軍に対抗して、デカン高原の南、トゥンガバドラー川のほとりに建てられたヒンドゥーの王国だった(ヴィジャヤナガル王国)。都の名はそのまま「勝利の都」を意味する。

ヴィジャヤナガル王国に関わる図版:Vijayanagara Empire c.1485
ヴィジャヤナガル王国Wikimedia Commons Avantiputra7 · CC0

1471年ごろ、王国の実権を握っていた武将トゥルヴァ・ナラサ・ナーヤカの子として生まれたとされる。父は王家に代わって国を動かし、その子たちが新しい王統(トゥルヴァ朝)を開いた。1509年、異母兄の王が死ぬと、クリシュナデーヴァラーヤが王位についた。30代の後半だった。

即位したとき、王国は内と外に問題を抱えていた。北には、かつてのバフマニー朝が分かれてできたデカンのイスラーム王国(スルタン国)が並び、毎年のように国境を侵した。東の海岸には、オリッサを本拠とするガジャパティ朝の王が、南へ勢力を伸ばしていた。国内では、地方を治める有力な領主たちが、王の命令に従わないことも多かった。

ヴィジャヤナガル王国の遺跡
ヴィジャヤナガル王国の遺跡Wikimedia Commons Chavakiran at Telugu Wikipedia · Public domain

クリシュナデーヴァラーヤはまず北の脅威に向かった。即位の年、聖戦を掲げて攻めてきたスルタン国の連合軍を撃退し、翌年からビジャープルのスルタン国の領内に攻め込んだ。続いて東のガジャパティ朝と戦い、海岸地方の山城を次々に落として、オリッサの南の境まで攻め込んだ。和平の際、ガジャパティの王は自分の娘を彼に嫁がせている。

最も名高い勝利は、1520年のライチュールの戦いである。ライチュールは、クリシュナ川とトゥンガバドラー川の二つの川に挟まれた肥沃な土地にある城で、ヴィジャヤナガルとビジャープルは100年以上にわたってこの土地を奪い合ってきた。クリシュナデーヴァラーヤは大軍を率いてビジャープルのスルタンの軍を破り、城を手に入れた。この戦いには、ポルトガル人の銃兵も加わっていたと伝えられる。

ベルガウムの寺院
ベルガウムの寺院Wikimedia Commons Manjunath Doddamani Gajendragad at en.wikipedia · Public domain

ポルトガル人は、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路からまもなく、1510年にインド西岸のゴアを占領していた。クリシュナデーヴァラーヤは彼らと手を結んだ。南インドでは良い軍馬が育たず、騎兵の力はアラビアやペルシアから海を渡って運ばれてくる馬に頼っていた。インド洋の航路を押さえたポルトガルから馬を買い入れることは、北のスルタン国に馬が渡るのを防ぐことでもあった。

都の繁栄ぶりは、外国人の記録に残っている。1520年ごろに都を訪れたポルトガルの商人ドミンゴ・パイスは、都はローマに劣らない大きさで、果てが見えないほど広い、市場には宝石や真珠がうず高く積まれ、世界で最も物資に恵まれた都市だ、と書いた。王についても、中背で色白、体格が良く、顔には天然痘の痕があり、毎朝夜明け前に油を塗って体を鍛え、馬で野を駆けていた、と細かく描いている。当時の記録の数字や表現には誇張があるとしても、都が南アジアでも指折りの大都市だったことは、残る遺跡の広さからも確かめられる。

スリーランガムのランガナータスワーミ寺院にあるランガナーヤカ像
スリーランガムのランガナータスワーミ寺院にあるランガナーヤカ像Wikimedia Commons Ms Sarah Welch · CC0

王は熱心なヒンドゥー教徒で、各地の寺院に寄進を重ねた。都の寺院を増築し、南インドの寺院の入口にそびえる大きな塔門(ゴープラム)を数多く建てさせた。聖地ティルパティの寺院にはたびたび参詣して莫大な宝物を納め、そこにはいまも、王と二人の妃が合掌する姿の銅像が残っている。

クリシュナデーヴァラーヤの宮廷は、文学の都でもあった。王は南インドのさまざまな言葉の詩人を保護し、とりわけテルグ語の文学が花開いた。宮廷にいた8人の優れた詩人は、世界の八方を支える8頭の象にたとえて「八象」と呼ばれたと伝えられる。その筆頭とされるアッラサーニ・ペッダナは、テルグ語の詩の父とも呼ばれる。王自身もテルグ語で長い詩『アームクタマーリヤダ』を書いた。南インドの女性の聖者アーンダールが神ヴィシュヌに捧げた愛を描いた物語詩で、その中には、王が国をどう治めるべきかを説いた部分がある。港を整え、遠い国から馬や象や宝石を運んでくる商人を手厚くもてなせ、そうすれば富は敵ではなく自分の国に流れ込む、といった、交易を重んじる具体的な助言が書かれている。

ティルマラ寺院とヴァイクンタム待合複合施設
ティルマラ寺院とヴァイクンタム待合複合施設Wikimedia Commons The original uploader was Vimalkalyan at English Wikipedia . · CC BY 2.5

晩年は後継の問題に悩まされた。幼い息子を後継に立てたが、その子はまもなく死んだ。毒殺を疑った王は、長年仕えた宰相の一族を罰したと伝えられる。1529年、王は死に、異母弟のアチュタ・デーヴァ・ラーヤが後を継いだ。

王の死から36年後の1565年、北のスルタン国が手を結び、ターリコータの戦いでヴィジャヤナガルの軍を破った(ターリコータの戦い)。都は半年にわたって略奪され、寺院も宮殿も壊された。王国はその後も南へ拠点を移して続いたが、二度とかつての力を取り戻すことはなかった。

クリシュナデーヴァラーヤ治世のヴィジャヤナガル王国の銅貨。ガルダの図像
クリシュナデーヴァラーヤ治世のヴィジャヤナガル王国の銅貨。ガルダの図像Wikimedia Commons Billjones94 · CC0

いま、都の跡はハンピと呼ばれ、巨大な岩が転がる荒野の中に、寺院や宮殿や市場の跡が広がっている。世界遺産に登録されたその遺跡は、パイスが書いた都の大きさが誇張ではなかったことを伝えている。南インド、とくにテルグ語やカンナダ語を話す地域では、クリシュナデーヴァラーヤはいまも理想の王として語られ、映画や小説の主人公になっている。北のムガル帝国の成立が興るのは、彼の死の3年前のことだった。

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