概要
1858年、最初のケーブルが繋がり、ヴィクトリア女王とブキャナン大統領が挨拶を交わした。98語の送信に16時間かかり、3週間で切れた。1865年、グレート・イースタン号(当時ずば抜けて巨大な失敗作の客船)が敷設船に転用され、途中で切断。1866年、成功し、落とした前年のケーブルも拾い上げて繋いだ。ロンドンとニューヨークの間の情報の伝達が、10日から数分になった。市場と外交と新聞が、同じ日を共有し始めた。
場所
47.57°N -52.68°E · カナダ・ニューファンドランド
本文
1844年、モースがワシントンとボルティモアの間で電信を実用化した。1851年、ドーヴァー海峡に海底ケーブルが通り、ロンドンとパリが繋がった。
次は、大西洋である。距離3200km。深さ4000m以上。
**サイラス・フィールド**。ニューヨークの製紙業で財を成した実業家。33歳で引退したが、退屈していた。技術者の話を聞いて、この事業に取り憑かれた。以後13年、資金を集め、失敗し、また集めた。
**ケーブル**。銅の芯を、ガタパーチャ(マレー半島の樹脂。海水で劣化しない絶縁体。当時、これ以外に選択肢がなかった)で包み、麻を巻き、鉄線で鎧装する。総重量数千トン。
**測深**。海底の地形が分からなければ敷けない。モーリーの海軍天文台のデータが、大西洋の中央に比較的浅く平らな高まり(「テレグラフ台地」)があることを示していた。
**1857年**、最初の試み。アメリカとイギリスの軍艦がケーブルを半分ずつ積み、大西洋の中央で繋いで、両側へ向かった。600kmで切れた。
**1858年8月5日**、成功。ニューファンドランドのハーツ・コンテントとアイルランドのヴァレンシアが繋がった。
祝賀。ニューヨークで花火が上がり、市庁舎の屋根が焼けた。ヴィクトリア女王がブキャナン大統領に祝電を送った。98語。送信に**16時間**かかった。
信号が弱く、読めない。技師ワイルドマン・ホワイトハウスが、電圧を上げれば通ると考え、2000ボルトを掛けた。絶縁体が焼けた。
**9月18日、断線**。総通信数、732。約3週間。
株主は激怒し、詐欺ではないかという疑いが持たれた。調査委員会が設けられた。
**科学**。ここで、**ウィリアム・トムソン**(後のケルヴィン卿)が主導権を握った。
彼が持ち込んだこと。(1)長い海底ケーブルでは信号が鈍る(遅延と減衰)ことの理論。(2)だから電圧を上げるのではなく、**微弱な信号を検出する**装置を作る。**鏡検流計**——小さな鏡を付けた磁石を糸で吊るし、光を当てて、その反射光の動きを目盛りに映す。人間の目が、微小な振れを読む。(3)ケーブルの銅の純度と、製造の品質管理。
**1865年**、再挑戦。今度は、グレート・イースタン号が使われた。ブルネルの巨大な失敗作の客船が、ケーブル全長を一隻で積める唯一の船として、敷設船に改造された。
2000km進んだところで、ケーブルが切れて海底に沈んだ。何度か、鉤で引き上げようとしたが、失敗した。
**1866年7月27日**、成功。ハーツ・コンテントに揚陸。
そして、グレート・イースタン号は引き返し、前年に落としたケーブルを、深さ4kmの海底から**鉤で探り当てて引き上げ**、繋いで、それも完成させた。2本の回線ができた。
**変わったこと**。
それまで、ロンドンとニューヨークの間で情報が伝わるには、船で10日から2週間かかった。それが**数分**になった。
- **市場**。両岸の綿と穀物と株の値段が、同じ日に揃った。裁定取引が消え、価格が収斂した。ロイターは、この回線に事業を賭けた。 - **外交**。大使が本国の訓令を待てるようになった。裏返せば、現地の判断で動く余地が減った。 - **新聞**。「外電」が生まれた。 - **帝国**。イギリスは以後、インド(1870年)、オーストラリア(1872年)、アフリカ、そして世界を、海底ケーブルの網で結んだ。「オール・レッド・ライン」——全区間が英領を通る回線。1900年、世界の海底ケーブルの大半をイギリスが所有していた。第一次大戦の開戦直後、イギリスはドイツの大西洋ケーブルを切断した。
料金は、当初、10語で100ドル(当時の労働者の数か月分)。使えるのは政府と、大商社と、新聞社だけだった。
トムソンは、この仕事でナイトに叙され、後にケルヴィン卿になった。彼が熱力学の絶対温度に名を残しているのは、また別の仕事による。