大西洋横断電信ケーブル

概要
1858年、最初のケーブルが繋がり、ヴィクトリア女王とブキャナン大統領が挨拶を交わした。98語の送信に16時間かかり、3週間で切れた。1865年、グレート・イースタン号(当時ずば抜けて巨大な失敗作の客船)が敷設船に転用され、途中で切断。1866年、成功し、落とした前年のケーブルも拾い上げて繋いだ。ロンドンとニューヨークの間の情報の伝達が、10日から数分になった。市場と外交と新聞が、同じ日を共有し始めた。
場所
47.88°N -53.37°E · カナダ・ニューファンドランド島(トリニティ湾)
関わった人(1)
サイラス・フィールドAD1819年11月30日–AD1892年7月12日 · 事業を率いた本文
1844年、アメリカのサミュエル・モースが、ワシントンとボルティモアの間に電線を張り、電気の信号で言葉を送ってみせた(モールスの電信)。それから十年もたたないうちに、電信の線は陸の上を網の目のように覆い始める。1851年には、ドーヴァー海峡の海底にケーブルが敷かれ、ロンドンとパリが電信で結ばれた。
次は大西洋だった。アイルランドの西の端から、北アメリカの東の端のニューファンドランドまで、およそ三千キロメートル。海の深さは、ところによって四千メートルを超える。それだけの長さの電線を、深い海の底に切らずに敷くことができるのか。誰もやったことのない事業だった。

その事業に取り憑かれたのが、ニューヨークの実業家サイラス・フィールド(1819〜1892年)である。紙の卸売りで財を成し、三十代の初めで仕事から身を引いていたが、ニューファンドランドに電信の線を引こうとしている技師の話を聞いて、心を奪われた。どうせなら大西洋を越えて、ヨーロッパまでつないでしまえばいい。以後十年あまり、彼は大西洋を何十回も船で行き来して、イギリスとアメリカで資金を集め、技術者を口説き、政府に協力を頼み、失敗しては、また集めた。
ケーブルの作りはこうである。電気を通す銅の芯を、ガタパーチャという東南アジアの樹の樹脂で包む。ガタパーチャは海水に浸かっても傷まない絶縁の材料で、当時、深い海の底で使えるものはほかに無かった。その上に麻を巻き、さらに鉄の線で鎧のように覆う。全長で数千トンにもなる重さだった。海の底の形も調べなければならなかった。アメリカ海軍の観測所が集めた測深の記録から、大西洋の中ほどには比較的浅く平らな高まりがあることが分かり、「電信の台地」と呼ばれた。

最初の挑戦は1857年である。イギリスとアメリカの軍艦がケーブルを積んでアイルランドから敷き始めたが、六百キロメートルほど進んだところでケーブルが切れ、海に沈んだ。翌1858年の夏、今度は二隻が大西洋の真ん中で落ち合ってケーブルの両端をつなぎ、それぞれの岸へ向かって敷いていく方法がとられた。何度かの失敗ののち、8月5日、アイルランドのヴァレンシア島とニューファンドランドのトリニティ湾が、ついに一本の線で結ばれた。
祝賀の熱狂は大変なものだった。ヴィクトリア女王はアメリカのブキャナン大統領に祝いの電文を送り、大統領も返信した。ニューヨークでは花火が打ち上げられ、その火が燃え移って市庁舎の屋根が焼けるほどだった。だが、信号はひどく弱く、読み取るのが難しかった。女王の九十八語の電文を送り終えるのに、十六時間以上かかった。

信号を強めようとして、技師の一人が高い電圧をケーブルに掛けた。それが絶縁を傷めたと考えられている。開通から三週間ほどで信号は途絶え、二度と戻らなかった。その間に送られた電文は七百ほどだった。あれほど祝われたケーブルが黙り込むと、人々の失望は怒りに変わり、本当につながっていたのか、株を売るための芝居ではなかったか、と疑う声まで出た。
失敗の原因を調べる委員会が開かれ、ここで主役になったのが、グラスゴー大学の物理学者ウィリアム・トムソンだった。トムソンは、長い海底ケーブルでは、電気の信号が送られる途中でなまって遅れ、弱まってしまうことを理論で示していた。だから必要なのは、電圧を上げることではなく、弱い信号をとらえる感度のよい受信機である。彼は、小さな鏡を付けた磁石を細い糸で吊るし、その鏡に光を当て、反射した光の点が目盛りの上でわずかに動くのを読み取る装置を考えた。ごく弱い電流でも、光の点ははっきりと動いた。彼はまた、ケーブルに使う銅の純度をそろえ、製造の段階から品質を厳しく確かめることを求めた。

アメリカでは南北戦争が始まり、事業はしばらく止まった。再挑戦は1865年である。今度は、イギリスの技師ブルネルが設計した巨大な汽船グレート・イースタン号が使われた。当時の世界でずば抜けて大きな船で、客船としては商売にならず持て余されていたが、ケーブルの全長を一隻で積み込める唯一の船として、敷設の船に改造されたのである。だが、二千キロメートル近く敷いたところでケーブルが切れ、深い海の底へ沈んだ。鉤の付いた綱を下ろして何度か引き上げようとしたが、そのたびに綱が切れた。
1866年、グレート・イースタン号はもう一度、改良したケーブルを積んでアイルランドを出た。そして7月27日、ニューファンドランドのハーツ・コンテントの浜に、ケーブルの端が無事に揚げられた。今度は信号がはっきりと通った。

それだけでは終わらなかった。グレート・イースタン号は海に引き返し、前の年に失ったケーブルを探した。四キロメートル近い深さの海の底から、鉤で手探りしてケーブルを引っかけ、何度も失敗したのち、ついに引き上げることに成功した。それに新しいケーブルをつなぎ足して、9月にはこちらも完成させた。大西洋の両岸は、二本の線で結ばれた。
それまで、ロンドンとニューヨークの間で知らせが伝わるには、蒸気船で十日ほどかかっていた(蒸気船の大西洋定期航路)。それが数分になった。両岸の綿や穀物や株の値段は、同じ日のうちにそろうようになり、海の向こうの値動きを知って売り買いする商人の動きも変わった。新聞は、昨日の海の向こうの出来事を今朝の紙面に載せるようになった。外交も変わった。遠い国にいる大使は本国の指示を待てるようになったが、裏を返せば、自分の判断で動く余地は小さくなった。

ただし、初めの料金はひどく高く、使えたのは政府や大きな商社、新聞社にほぼ限られていた。それでも料金は年を追って下がり、利用は広がっていった。大西洋の海底には、その後も次々とケーブルが敷かれていく。
イギリスはこの技術で世界を結んだ。1870年にはインドへ、1872年にはオーストラリアへ海底ケーブルが通じ、やがて大英帝国の各地は、ほとんどイギリスの領土だけを通る電信の網で結ばれた。十九世紀の終わりには、世界の海底ケーブルの大半をイギリスの会社が持っていた。国境を越える電信の料金や手続きを取り決めるために、ヨーロッパではすでに1865年、各国が集まって国際的な組織を作っていた(国際電信連合の設立)。1914年に第一次世界大戦が始まると、イギリスはすぐにドイツの海底ケーブルを切断し、ドイツの通信を自分たちの耳の届く経路へ追いやった。

トムソンはこの功績でナイトに叙され、のちにケルヴィン卿となった。温度の単位に名を残しているのは、彼の別の仕事による。三十年あまりのち、電線を使わずに電波で大西洋を越える通信が成功する(マルコーニの大西洋横断無線)。だが海底ケーブルは姿を変えて生き残り、いまも大陸と大陸の間を行き交う通信の大部分は、光ファイバーの海底ケーブルを通っている。