概要
ベルギー国王。国が植民地を欲しがらないので、自分で持つことにした。スタンリーを雇い、地図の上に線を引き、ベルリン会議で列強に「自由貿易の慈善国家」として承認させた。象牙、そしてゴム。ベルギー本国には収奪を隠し、ブリュッセルに凱旋門と王宮とアフリカ博物館を建てた。生涯、コンゴへ行かなかった。葬列に、群衆が野次を飛ばした。
関わったできごと(2)
ベルリン会議とアフリカ分割1884年11月 · コンゴを得たコンゴ自由国1885年 · 私有した本文
1835年4月9日、ブリュッセル。ベルギー初代国王レオポルド1世の次男(兄が死んで、後継に)。母はフランス王ルイ=フィリップの娘。1853年、オーストリアの大公女マリー・アンリエットと結婚(不幸な結婚だった)。
若い頃から、植民地を欲しがった。「ベルギーは小さい。だが、世界は大きい」。議会に、フィリピンを買うことを、フィジーを取ることを、台湾を、ボルネオを、フォルモサを、ニューギニアを、そして「アルゼンチンの一部」を提案した。全部、拒まれた。ベルギーは商業国で、植民地の費用を負担する気がなかった。
1865年、即位。1876年9月、ブリュッセルで「地理学会議」を主催した。ヨーロッパの探検家と地理学者と慈善家を集めて、「アフリカ内陸の探検と、奴隷交易の廃止と、文明化」のための国際協会を作った。自分が議長になった。
1878年、スタンリーを雇った(コンゴ川を下り切ったばかりだった。イギリスは彼に関心を示さなかった)。1879〜84年、スタンリーはコンゴ川流域を遡り、450の首長と「条約」を結んだ。布と、真鍮の棒と、酒と引き換えに、土地の主権を、読めない文書で譲る内容だった。
1884〜85年、ベルリン会議。レオポルドは巧みに動いた。フランスとイギリスとポルトガルが互いを牽制する中で、「中立の、自由貿易の、慈善の国家」として、コンゴ盆地を、ベルギーでなく、彼個人が持つことを、列強に承認させた。1885年、「コンゴ自由国(エタ・アンデパンダン・デュ・コンゴ)」。面積はベルギーの76倍。
1890年代、自動車と自転車のタイヤで、天然ゴムの需要が爆発した。コンゴの森にゴムの蔓があった。
制度。土地と産物は全て国家(=王)のもの、と宣言した。住民は「税」としてゴムを納める。村ごとに割り当て。強制公安軍(フォルス・ピュブリク。アフリカ人の兵と、ヨーロッパ人の将校)が村に来て、女と子供を人質に取り、男を森へ送る。割り当てに足りなければ、鞭(シコット。カバの皮)、そして殺害。兵は弾薬を無駄遣いしていないことを証明するために、撃った相手の右手を切って持ち帰った。手が籠に集められた。撃ち損ねた兵は、生きている人の手を切った。
告発。1890年、アフリカ系アメリカ人の宣教師ジョージ・ワシントン・ウィリアムズが、レオポルドへの公開書簡で「人道に対する罪」(この言葉を使った最初期の一つ)を書いた。1899年、ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(彼は1890年に川船の船長としてコンゴにいた)。1900年、リヴァプールの海運会社の事務員エドマンド・モレルが、船の積荷の記録から気づいた。「コンゴから来るのは、ゴムと象牙。コンゴへ行くのは、銃と弾薬と鎖。それ以外の交易品がない。これは交易ではない。強奪だ」。彼は職を辞して、コンゴ改革協会を作った。1903年、イギリス領事ロジャー・ケースメントが、現地を回って報告書を書いた(1904年公表)。宣教師アリス・ハリスが、切られた手を見つめる父親の写真を撮った。
人口。1880年頃から1920年頃までに、コンゴの人口は半減した、というのが多くの推計(1000万人が減った、とベルギーの人類学者ヤン・ヴァンシナは推定した。殺害、飢餓、疫病、出生率の低下の合計)。数字には議論がある。
1908年11月15日、ベルギー議会が、圧力に屈した王から、コンゴを買い取った(王には多額の補償が支払われた)。「ベルギー領コンゴ」になった。
レオポルドは、コンゴから得た金で、ブリュッセルとオステンドに、凱旋門(サンカントネール)、王宮の温室、遊歩道、そしてテルヴューレンの中央アフリカ博物館を建てた。「建設王」。
私生活。1899年、65歳のとき、16歳の娼婦カロリーヌ・ラクロワを愛人にした。彼女に莫大な財産を残した。ベルギー国民は彼を嫌った。1909年12月17日、死んだ。葬列に、群衆が野次を飛ばした。
ブリュッセルの騎馬像は、2020年、赤い塗料をかけられた。テルヴューレンの博物館は2018年に改装して、植民地支配の歴史を展示に組み込んだ。ベルギー国王フィリップは2020年、コンゴ独立60年に「深い遺憾」を表明した。謝罪ではない、という指摘がある。