プリトヴィーラージ3世
概要
デリーとアジメールのラージプート王。タラーインで一度勝ち、翌年負けて殺された。ヒンドゥーの側の最後の王として、叙事詩と映画で語られ続けている。
所属
デリー・スルタン朝関わったできごと(1)
タラーインの戦いAD1192年 · 敗者本文
12世紀の北インドは、ラージプートと呼ばれる武士の家々が建てた王国に分かれ、互いに争っていた。北西の端では、アフガニスタンから攻め込んでくるイスラームの勢力が、11世紀のマフムード・ガズナウィーの侵入以来、繰り返しインドの富を狙っていた。プリトヴィーラージ3世が王となったチャーハマーナ朝、俗にチャウハーン朝は、いまのラージャスターン州のアジメールを本拠とする王家で、12世紀の半ばには北のデリーも手に入れていた。

プリトヴィーラージは1166年頃に生まれ、父の死によって11歳ほどで王位を継いだ。はじめは母が摂政として国を治め、やがて若い王が自ら政治をとるようになった。彼の時代の様子を伝える史料には、同時代の宮廷で作られたサンスクリットの詩と、のちの時代に作られた伝説的な叙事詩とがあり、どこまでが事実かを見分けるのは難しい。
若い王は、周りのラージプートの諸国と戦って領土を広げた。東南のチャンデーラ朝を攻め、その都の近くまで攻め込んだことは碑文からも確かめられる。この戦いは、のちに北インドで語り継がれる英雄の物語の舞台にもなった。一方で、西のグジャラートのチャウルキヤ朝や、東のカナウジを本拠とするガハダヴァーラ朝とは、対立が続いていた。

よく知られた伝説がある。カナウジの王ジャヤチャンドラが、娘のサンヨーギターの婿を選ぶ儀式を開いた。娘はプリトヴィーラージを慕っていたが、父は彼を招かず、侮辱のために門番の像として彼の人形を置いた。そこへプリトヴィーラージが現れ、王女をさらって馬で駆け去った。怒ったジャヤチャンドラは、のちにプリトヴィーラージを裏切ってイスラームの軍に味方した、という筋書きである。この話は後世の叙事詩によるもので、史実かどうかは分からない。ジャヤチャンドラが侵入者を招いたという話も、確かな根拠はないとされる。
この頃、アフガニスタンのゴール朝のムハンマド・ゴーリーは、インドへの進出を本格的に進めていた。1191年、両軍は、デリーの北のタラーインで激突した。プリトヴィーラージの軍は大勝し、ムハンマド・ゴーリーは傷を負って退いた。だが、プリトヴィーラージは、逃げる敵を追って徹底的にたたくことはしなかったとされる。
翌1192年、ムハンマド・ゴーリーは、よく訓練された騎馬の弓兵を中心とする大軍を率いて戻ってきた。両軍は同じタラーインの地で再び戦った(タラーインの戦い)。ゴール軍は、軽い騎兵で敵を引きつけては退き、疲れたところを主力でたたく戦い方をとったといわれる。プリトヴィーラージの軍は崩れ、王は逃れようとしたところを捕らえられ、殺された。その場で殺されたとも、しばらく生かされた後に処刑されたとも伝えられ、最期の様子は史料によって異なる。

後世の叙事詩『プリトヴィーラージ・ラーソー』は、別の最期を描いている。王はアフガニスタンのガズナに連れて行かれ、目を潰された。だが、友である宮廷詩人の合図の言葉を頼りに、声のする方向へ矢を放ち、敵のスルタンを射殺してから死んだ、というのである。この話は、敗北をもう一度英雄の物語として語り直したものであり、史実ではない。叙事詩そのものも、王の死から何百年も後に、いまの形にまとめられたと考えられている。
タラーインの敗北の後、北インドの情勢は大きく変わった。ムハンマド・ゴーリーの部将たちはデリーを拠点に支配を広げ、カナウジのジャヤチャンドラも2年後に敗れて死んだ。1206年、ゴーリーの死後、部将のアイバクがデリーで自立し、デリー・スルタン朝が始まる(デリー・スルタン朝の成立)。デリーにそびえるクトゥブ・ミナールの塔は、この新しい支配の始まりを告げる建物である。そのすぐそばには、プリトヴィーラージの城と呼ばれる城壁の跡が残っている。
プリトヴィーラージは、のちの時代のインドで、侵略者に立ち向かった最後のヒンドゥーの偉大な王として語られるようになった。ラージャスターンの吟遊詩人たちは彼の勇気と恋を歌い続け、20世紀には、民族の誇りの象徴として学校の教科書や映画に取り上げられた。2022年にも、彼を主人公にした大作の映画が作られている。ただ、そうした語られ方の中には、後の時代の宗教や政治の対立が投影されている面もあり、12世紀の一人の王の実像と、英雄としての姿とを、分けて見る必要がある。