クラウディウスのブリタニア征服
概要
カエサルの100年後。どもりで足を引きずる皇帝が、凱旋のために4個軍団を送った。象を連れて自分で16日いた。カムロドゥヌムでカラタクスの側を破った。カラタクスは8年戦って、ローマに送られ、「これほどの街を持ちながら、なぜ我々の小屋を」と言って赦された。360年あまりの属州。
場所
51.89°N 0.90°E · イギリス
関わった人(2)
クラウディウスBC10年8月1日–AD54年10月13日 · 皇帝カラタクス?–AD54年頃 · 戦った本文
ローマ人が初めてブリタニアに渡ったのは、ガイウス・ユリウス・カエサルのときだった。ガリアを征服中のカエサルは、紀元前55年と54年の二度、海峡を渡ってブリタニアの南東部に上陸した。ブリタニアの部族がガリアの抵抗を助けているというのが名目だった。カエサルはいくつかの部族を従わせて貢納を約束させたが、領土として治めることはせず、ガリアに戻った。
それから100年近く、ローマはブリタニアを征服しなかった。だが交易は盛んになり、南東部の部族の王たちは、ローマのワインや陶器、銀器を手に入れ、ローマ風の貨幣を作った。初代皇帝アウグストゥスは何度か遠征を計画したが、実行しなかった。3代皇帝カリグラは40年、軍を海峡の岸まで連れて行きながら渡らず、兵に浜辺で貝殻を拾わせて、海に対する勝利の戦利品だと言わせた、という話が伝えられている。

43年、皇帝クラウディウスは即位して2年目だった。クラウディウスは、先帝カリグラが暗殺された混乱の中で、宮殿のカーテンの陰に隠れていたところを近衛兵に見つけられ、皇帝に担ぎ上げられたと伝えられる。生まれつき体が不自由で、どもりがあり、一族の中では軽んじられてきた。学問を好み、歴史を書く人だったが、軍功は一つもなかった。皇帝としての権威を固めるには、目に見える勝利が必要だった。
口実はあった。ブリタニアの南東部では、カトゥウェッラウニ族の王クノベリヌスが勢力を広げていた。その死後、息子のカラタクスとトゴドゥムヌスが隣のアトレバテス族の土地を攻め、その王ウェリカはローマに逃れて助けを求めた。ローマと結んでいた王を守る、という名目が立った。

将軍アウルス・プラウティウスが、4個軍団に補助軍を加えた、およそ4万の兵を率いて渡った。軍団の一つを率いていたのは、のちに皇帝になるウェスパシアヌスだった。出発の前、兵たちは、世界の果ての外へ行くのを嫌がって、船に乗ろうとしなかった。皇帝の使いとして来た解放奴隷のナルキッソスが説得しようとすると、兵たちは、奴隷が主人の役を演じる祭りのようだと嘲り、それでかえって気が変わって乗船した、と歴史家ディオは書いている。
上陸したローマ軍は、メドウェイ川で二日にわたる激しい戦いの末にブリトン人の軍を破り、さらにテムズ川まで追った。この戦いの中でトゴドゥムヌスが死んだ。プラウティウスは進撃を止め、皇帝の到着を待った。勝利の栄誉を皇帝に捧げるためだった。

クラウディウスは、ローマから船と陸路でやってきた。ディオによれば、戦象まで連れていた。皇帝は軍に合流してテムズ川を渡り、カトゥウェッラウニ族の都カムロドゥヌム、いまのコルチェスターに入った。ブリタニアに滞在したのは、わずか16日だったとスエトニウスは伝える。ローマに建てられた凱旋門の碑文には、皇帝が11人のブリタニアの王の降伏を受けた、と刻まれた。元老院はクラウディウスに「ブリタンニクス」の称号を贈り、皇帝はそれを幼い息子に名乗らせた。ローマに戻った皇帝は、盛大な凱旋式を行った。
征服はその後も続いた。ウェスパシアヌスは南西部へ進み、丘の上の砦を次々に落とした。カムロドゥヌムには退役兵の植民市が作られ、クラウディウスを神として祀る神殿が建てられた。テムズ川の渡し場には、まもなくロンディニウムという町ができ、それがロンドンになる。

カラタクスは西へ逃れ、ウェールズの山地の部族を率いて、8年にわたってローマに抵抗を続けた。51年、ついに決戦に敗れると、北のブリガンテス族の女王カルティマンドゥアを頼った。だが女王はローマと結んでおり、カラタクスを鎖につないでローマに引き渡した。
歴史家タキトゥスは、ローマでの場面を書き残している。捕虜として皇帝と民衆の前に引き出されたカラタクスは、命乞いをせず、堂々と語った。自分にも馬と兵と武器と富があった。それを失いたくないと思うのは当然ではないか。ローマ人が世界を支配したいからといって、世界の人びとが喜んで隷属を受け入れるとでもいうのか、と。クラウディウスは、その態度に心を動かされ、カラタクスと家族を赦した。のちにカラタクスがローマの街を見て、これほどのものを持ちながら、なぜ我々の貧しい小屋を欲しがるのか、と言ったという話もディオが伝えている。
征服の後も、ブリタニアの支配は平穏ではなかった。60年から61年にかけて、イケニ族の女王ブーディカが蜂起し、カムロドゥヌムとロンディニウムを焼き払った(ブーディカの反乱)。北のスコットランドの征服はついに果たされず、皇帝ハドリアヌスは122年から北の境に長城を築かせた(ハドリアヌスの長城)。
それでも、ブリタニアはその後、ローマの属州として360年あまりを過ごした。町が作られ、道路が延び、浴場や別荘が建てられ、ラテン語が話された。410年ごろ、西ローマ帝国が衰える中で、ローマの軍はブリタニアを去り、皇帝はブリタニアの諸都市に自分の身は自分で守れと書き送ったと伝えられる。ブリタニアは帝国から切り離され、やがてアングロ・サクソンの人びとが海を渡って来る時代になる。