ゲディミナス
概要
異教のままヨーロッパ各地に手紙を送り、商人と職人を招いた。ヴィリニュスを都にし、東スラヴの土地を呑み込んでいく。子と孫が、リトアニアとポーランドの王になる。
所属
リトアニア大公国本文
リトアニアは14世紀になっても、ヨーロッパに残った最後の大きな異教の国だった。西にはドイツ騎士団とリヴォニア騎士団が構え、異教徒の改宗を名目に毎年のように攻め込んできた。東には、モンゴルの支配で力を失ったルーシの諸公国が広がっていた。ゲディミナスは、この挟まれた位置を逆に使って国を大きくした君主である。

生まれは1275年ごろとされるが、確かではない。出自もはっきりせず、先代の大公ヴィテニスの兄弟だったとするのが通説である。1316年ごろ、ヴィテニスの跡を継いで大公になった。
都をヴィリニュスに置いたのはこの人だとされる。狩りの途中で丘に泊まった夜、鉄の狼が百匹の狼の声で吠える夢を見た。神官リズデイカがそれを「ここに世界に名の轟く都が建つ」と解いた、という伝説がある。伝説そのものは後世のものだが、ヴィリニュスの名が都として記録に現れるのは、確かにゲディミナスの時代である。

1323年、ゲディミナスはリューベックやロストクなどハンザの都市、ドミニコ会とフランシスコ会、そして教皇ヨハネス22世に宛てて、ラテン語の手紙を送った。商人、職人、農民、騎士を招き、税を軽くし、それぞれの信仰を守ってよいと約束する内容だった。手紙の写しはいまも残っている。人と技術が足りない国に、外から人を呼び込もうとしたのである。
教皇への手紙では、洗礼を受ける用意があるとほのめかした。教皇は喜んで使節を送り、騎士団にリトアニア攻撃を控えるよう命じた。同じ年、ゲディミナスは騎士団とも和約を結んでいる。ところが1324年に教皇の使節がヴィリニュスに着くと、ゲディミナスは洗礼の意志を否定した。使節の報告によれば、キリスト教徒は自分たちの流儀で、ルーシの人は彼らの流儀で神を拝めばよい、我々は我々の流儀で神を拝む、と答えたという。手紙が騎士団の攻撃を止めるための外交だったのか、本気だった改宗が国内の異教徒や正教徒の反発で潰れたのか、研究者の見方は分かれている。
西では戦いが続いた。騎士団との抗争に備えて、1325年には娘アルドナをポーランドの王子カジミェシュ(のちのカジミェシュ3世)に嫁がせ、ポーランドと手を結んだ。この縁組は、半世紀後のクレヴォの合同へつながる最初の糸になった。

東では、戦いと婚姻で領土を広げた。ポロツク、ピンスク、ヴィテブスクなどのルーシの町がリトアニアの支配に入った。ヴィテブスクは息子アルギルダスの結婚によって手に入れている。キエフにまで影響が及んだとする説もあるが、確かな史料は乏しい。ルーシの土地は、言葉も宗教も東スラヴの正教だった。ゲディミナスはそれを無理に変えず、現地の貴族と教会をそのまま残した。正教の公たちにとって、モンゴルに貢ぎ物を払うより、信仰に口を出さないリトアニアの大公に仕えるほうがましだった。こうしてリトアニア大公国は、異教の君主が正教徒の多数を治める、珍しい国になっていく。
ゲディミナス自身の家族もその混ざり方を映している。妻が何人いたのか、正教徒の妻がいたのかは諸説ある。子のうち何人かは正教の洗礼を受けてルーシの町の公になり、何人かは異教のままリトアニア本土を治めた。

ゲディミナスは1341年に死んだ。騎士団の城を攻めていて戦死したとする記録もあるが、はっきりしない。異教の習わしどおり、遺体は馬や従者の装具と共に火葬されたと伝えられる。跡はまず息子ヤウヌティスが継いだが、まもなく兄のアルギルダスとケーストゥティスが実権を握り、二人で東と西を分け持った。
ゲディミナスの子孫は、ゲディミナス家と呼ばれる。孫のヨガイラ(ヴワディスワフ2世)は1386年にポーランドの女王と結婚して王になり、ヤギェウォ朝を開いた。この王朝はポーランド、リトアニアのほか、一時はハンガリーとボヘミアの王位にも就き、のちのポーランド・リトアニア共和国の土台になった。1410年のグルンヴァルトの戦いで騎士団を破ったのも、ゲディミナスの孫たちである。

いまのリトアニアでは、ゲディミナスは国の基を築いた大公として記憶されている。ヴィリニュスの丘には「ゲディミナスの塔」と呼ばれる城の塔が立ち、大聖堂の前には彼の像がある。ただ、その塔は後の時代に建て直されたもので、本人の時代の城の姿はほとんど分かっていない。