ジャヤーヴァルマン2世
概要
クーレン山で「唯一の王」を宣言し、クメールを一つにまとめた。アンコールの600年がここから始まる。
関わったできごと(1)
扶南の港市AD100年 · その後継の地に国を建てる本文
ジャヤーヴァルマン2世は、のちに東南アジアで最大の王国となるクメールの、最初の王とされる人物である。生まれた年ははっきりせず、770年前後とみられている。彼の生涯について分かっていることは驚くほど少なく、その多くは、死後200年以上たってから作られた一つの碑文に頼っている。
彼が現れる前、いまのカンボジアの地には、7世紀に栄えた真臘(真臘の興り)の流れをくむ小さな国々が分立していた。中国の記録は、8世紀に真臘が北の陸真臘と南の水真臘に分かれたと伝えている。その頃、海の向こうのジャワ島では、仏教を奉じるシャイレーンドラ朝が栄え、のちにボロブドゥールの巨大な仏教遺跡を築いた(ボロブドゥールの造営)。
1052年に刻まれたスドック・カック・トム碑文によれば、ジャヤーヴァルマンは「ジャワから」戻ってきた王族だった。このジャワを、いまのジャワ島とみるか、マレー半島や、チャンパなど別の土地を指す言葉とみるかで、研究者の解釈は分かれている。彼がそこにいた理由も、人質だったのか、学んでいたのか、亡命していたのか、分からない。いずれにしても、彼は戻ってくると、メコン川の流域やトンレサップ湖の北の各地を転々としながら、ほかの有力者たちを従えていったらしい。碑文には、彼が拠点とした町の名がいくつも並んでいる。
碑文が最も詳しく語るのは、802年の出来事である。ジャヤーヴァルマンは、いまのアンコールの北東にあるクーレン山(当時の名はマヘーンドラパルヴァタ)に一人のバラモンを招き、儀式を執り行わせた。王が世界を治める転輪王であることを宣言し、この国がもはやジャワに従属しないことを示す儀式だった。このとき、神なる王(デーヴァラージャ)と呼ばれる崇拝が始められたと碑文は書く。王の権威を、ヒンドゥー教の神シヴァと結びつける儀礼である。以後、クメールの王たちは、即位すると自らの神を祀る寺院を建てるようになった。
ただ、この碑文は、デーヴァラージャの儀礼を代々受け継いだと主張する祭司の一族が、自分たちの家の由来を誇るために刻んだものである。ジャヤーヴァルマンの事績は、祭司の家の歴史として語られている。そのため、802年の儀式がほんとうに碑文の通りのものだったのか、デーヴァラージャが何を意味したのかについては、多くの議論がある。この頃の王自身が残した碑文はほとんど見つかっていない。
近年、上空からレーザーで地表の起伏を測る調査によって、クーレン山の森の下に、碁盤の目のような道や貯水池、寺院の跡が広がる都の跡が見つかった。マヘーンドラパルヴァタは、碑文の中だけの地名ではなかった。ジャヤーヴァルマンはその後、トンレサップ湖の北のハリハラーラヤ(いまのロリュオスの遺跡群のあたり)に移り、835年頃にそこで死んだとされる。死後には、パラメーシュヴァラ(至高の主)という名が贈られた。
ジャヤーヴァルマン2世の後、ハリハラーラヤを拠点に王国は形を整え、9世紀の末には都がアンコールの地に移された。王たちは巨大な貯水池を掘り、寺院を建て、12世紀にはスーリヤヴァルマン2世がアンコール・ワットを、さらにジャヤーヴァルマン7世がアンコール・トムを築いた(アンコールの隆盛)。15世紀に都がアンコールから南へ移るまでのおよそ600年を、歴史家はアンコール時代と呼び、その起点をジャヤーヴァルマン2世の802年に置いている。
ただし、この起点そのものが後世の祭司の語りに基づいていることは、心に留めておく必要がある。802年という年も、碑文の記す年代から割り出したものである。後のクメールの王たちは、ジャヤーヴァルマン2世を王国の創始者として繰り返し碑文に記した。彼を始祖とすることで、自分たちの王権を正統なものにしようとしたのである。その意味で、彼は実在の王であると同時に、クメール帝国の王権が自らのために語った建国の物語の主人公でもある。