アルジェリア戦争
概要
入植者が100万人いた土地の独立戦争。拷問の告発がフランス国内を割り、第四共和政が倒れた。
場所
36.75°N 3.06°E · アルジェリア
関わった人(1)
シャルル・ド・ゴールAD1890年11月22日–AD1970年11月9日 · 独立を認めた側本文
フランスがアルジェを攻め落としたのは1830年のことである。以後、征服は内陸へ広がり、ヨーロッパから多くの入植者が渡った。1848年、アルジェリアの北部はフランスの県とされ、植民地ではなく本国の一部という建前になった。20世紀の半ばには、フランス人を中心とするヨーロッパ系の住民が100万人近く暮らし、彼らは後にピエ・ノワール(黒い足)と呼ばれた。
一方で、900万人ほどのイスラム教徒の住民は、長く市民としての権利を制限され、土地や仕事でも不利な立場に置かれた。第二次世界大戦の終わった1945年5月8日、東部のセティフで独立を求める行進から暴動が起き、フランス軍と入植者による報復で、数千人から数万人が殺された。犠牲者の数は今も争われている。この事件は、平和的な改革に望みをかけていた人々の心を変えた。
1954年11月1日、民族解放戦線(FLN)が各地で一斉に襲撃を起こし、戦争が始まった。この年の春、フランスはインドシナのディエンビエンフーで敗れたばかりだった(ディエンビエンフーの戦い)。だがアルジェリアは本国の一部である。フランス政府は、これは戦争ではなく国内の治安の問題だとし、徴兵した若者を含む数十万の兵を送り込んだ。

FLNは、独立運動の中のさまざまな流れを力でまとめ上げ、対立する組織とも血を流して争った。エジプトのナセル政権はFLNを支援し、それがフランスとイギリスが1956年にエジプトを攻めたスエズ危機の理由の一つにもなった。隣のチュニジアやモロッコが1956年に独立すると、FLNはその国境の外に軍の基地を置き、フランスは国境に電流を流した長い柵を築いて遮断した。
戦いは、正規の軍どうしのものではなかった。FLNは、農村でのゲリラ戦と都市での爆弾テロを行い、フランスに協力するとみなしたイスラム教徒の住民も容赦なく殺した。1957年の「アルジェの戦い」では、空挺部隊が首都のカスバを制圧し、FLNの組織を潰した。そのために、捕らえた人々への拷問が組織的に用いられた。拷問を受けた共産党系の記者アンリ・アレッグの手記『尋問』は1958年に出版され、発禁にされながらも広く読まれた。

拷問の告発は、フランスの国内を二つに割った。サルトルら知識人の多くが戦争に反対し、アルジェリア生まれの作家カミュは、テロと弾圧の両方を拒んで苦しい沈黙を選んだ。政府は戦争を続ける力も、やめる力も失っていった。1958年5月、本国政府が交渉に傾くことを恐れたアルジェの入植者と軍人が反乱を起こし、パラシュート部隊による本国への進攻まで噂された。第四共和政は収拾できずに倒れ、シャルル・ド・ゴールが首相として呼び戻された。彼は新しい憲法を定め、第五共和政の大統領になった。
ド・ゴールは6月にアルジェを訪れ、入植者の群衆を前に「私はあなたがたを理解した」と述べた。入植者たちは自分たちの味方が来たと受け取った。しかしド・ゴールは、やがてアルジェリアの人々の自決を認める方向へかじを切る。裏切られたと感じた将軍たちは、1961年4月にアルジェで反乱を起こし、失敗すると秘密軍事組織(OAS)がテロを始めた。同じ年の10月には、パリで独立を支持するアルジェリア人のデモが警察に弾圧され、多数の死者が出ている。

1962年3月、エヴィアン協定が結ばれて停戦し、7月の住民投票を経て、アルジェリアは独立した。数か月のうちに、80万を超えるピエ・ノワールが、ほとんどの財産を残して地中海を渡った。フランス軍に協力したアルジェリア人の兵(アルキ)の多くは置き去りにされ、独立後に報復で殺された人々は数万に及ぶとされる。
死者の数は、両国で大きく食い違う。アルジェリアは150万人の殉教者と言い、フランスの歴史家の多くはアルジェリア側の死者を数十万人と見積もる。フランス軍の死者は2万5000人ほどである。フランスが議会で公式に「アルジェリア戦争」という言葉を認めたのは1999年のことで、それまでは「出来事」と呼ばれていた。拷問の責任や記憶をどう扱うかは、両国の間で今も続く問題である。