人物

ハルシャ王

Harsha
AD590年 – AD647年(享年57・推定)
ヴァルダナ朝重要度 3

概要

グプタ朝の崩壊後、北インドを一時的にまとめた。玄奘が訪れて宮廷を記録している。戯曲も書いた。

関わったできごと(1)

ハルシャ王の北インド統一AD606年 · 王

本文

590年頃、北インドのターネーサル(いまのハリヤーナー州)を治める王家に生まれた。6世紀の半ば、北インドを長く束ねたグプタ朝は、中央アジアから来たフーナ(エフタル)の侵入と地方の自立で崩れ、各地の王家が覇を争っていた(グプタ朝の黄金時代)。ハルシャの父プラバーカラヴァルダナは、そのフーナと戦って勢力を広げた王だった。

玄奘三蔵
玄奘三蔵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ハルシャの若いころのことは、宮廷詩人バーナが書いた伝記『ハルシャチャリタ』に詳しい。華やかな美文で書かれた讃歌で、そのまま事実とは受け取れないが、事件の筋は他の記録とも合う。605年頃、父が病で死んだ。間もなく、東のカナウジの王に嫁いでいた姉のラージヤシュリーの夫が、マールワーの王に殺され、姉は捕らえられた。兄のラージヤヴァルダナは兵を率いてマールワーを破ったが、その帰りに、ベンガルのガウダ王シャシャーンカに欺かれて殺された。

16歳で即位した。兄が暗殺された後になる。606年のことで、この年を元年とする紀年が、のちまで北インドで使われた。ハルシャがまずしたのは、姉を探すことだった。牢を逃れた姉は、ヴィンディヤ山中の森に隠れていたが、絶望して火の中に身を投じようとしていた。ハルシャはそこに駆けつけて救ったと伝記は書く。姉は深く仏教に帰依し、のちまで弟の相談相手であり続けた。

Sculptures near Teli Mandir, Gwalior Fort
Wikimedia Commons Dayal, Deen · Public domain

北インドを、一時的にまとめた。首都を姉の嫁ぎ先だったカナウジに置き、ガンジス川の流域の王たちを従えた(ハルシャ王の北インド統一)。41年統治する。ただし、それは各地の王を直接治める国ではなく、臣従を誓わせて貢ぎ物を納めさせる、ゆるやかなまとまりだった。王は一年の多くを地方を巡って過ごし、自ら訴えを聞いて回った。

南へ拡大しようとして、デカンのチャールキヤ朝の王プラケーシン2世に阻まれた。プラケーシンの宮廷の碑文は、象の大軍を率いたハルシャが喜びを失った、と勝ち誇って書いている。ナルマダー川が境界になる。北インドと南インドを分ける線として、その後も繰り返し現れる。

仏に礼拝するハルシャ王(20世紀の想像画)
仏に礼拝するハルシャ王(20世紀の想像画)Wikimedia Commons Allan Stewart · Public domain

630年代、唐の僧玄奘がインドに来た(玄奘の西域行)。仏典を求めて長安を出た玄奘は、ナーランダー僧院(ナーランダー僧院の創建)で学び、その学識は王の耳にも届いた。ハルシャは玄奘を招き、643年、カナウジで大きな集会を開いて、玄奘の説く大乗の教えを諸国の学僧たちと論じ合わせた。玄奘は『大唐西域記』の中で、その宮廷を記録した。王はもとはシヴァ神や太陽神を崇めていたが、晩年は仏教に傾き、僧院を手厚く保護したと書かれている。

5年に一度、自分の財産をすべて施す会を開いたと書かれている。ガンジス川とヤムナー川が合流するプラヤーガ(いまのプラヤーグラージ)で、75日にわたって僧侶、バラモン、貧しい者たちに宝物や衣を配り、玄奘が見たのはその6回目だったという。最後は自分の衣まで脱いで与え、姉から古い服を借りて身に着け、十方の仏を礼拝した、と。

三つの戯曲を書いている。恋の喜劇『ラトナーヴァリー』『プリヤダルシカー』と、仏教説話をもとにした『ナーガーナンダ』である。自作かどうかには議論があるが、王の名で伝わっている。サンスクリットの劇として、のちまで上演され、読まれた。

641年、ハルシャは唐の唐の太宗に使いを送った。唐もこれに応えて使節を送り、両国の往来が始まった。

647年頃、後継者を残さずに死んだ。翌年、唐の使節・王玄策がインドに着いたときには、すでに王位を奪った者が国を握っていて、使節団は襲われた。王玄策は逃れて、吐蕃とネパールの兵を借りて攻め返したと唐の記録は書く。吐蕃の王ソンツェン・ガンポが唐と婚姻を結んでいた時期のことである。

統一は、また崩れる。北インドはその後、各地の王家が並び立つ時代に戻った。ハルシャは、グプタ朝の後に北インドをまとめた最後の大きな王として、またインドを訪れた中国の僧の目で詳しく描かれた王として、記憶されている。

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