できごと

赤い新月

Origin of the Red Crescent emblem
AD1876年
重要度 3
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国Turanマラーター同盟ペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェー中央アジアの諸ハン国スペイン帝国フラニ帝国(ソコト)オーストリア帝国エジプトドイツ帝国スペインフランスアフガニスタンNejdモロッコAlgiersKaartaグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセンモシ諸王国両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国オマーンTripolitaniaイエメンハノーファーCyrenaicaAD1876年コンスタンティノープル
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1876年の版図を描いています(34勢力)。

概要

オスマン帝国は早くにジュネーヴ条約に加わっていた。だが、バルカンでの戦いが始まると、白地に赤い十字の腕章は、兵にとって十字軍の旗に見えた。十字を掲げた救護員が狙われることもあったという。1876年、帝国はスイス政府に、自分たちは十字の代わりに赤い新月を使い、相手の赤十字は尊重すると通知した。ロシアとの戦争では、双方がそれぞれのしるしを認め合った。しるしが中立であるためには、見る側にとっても中立に見えなければならない。赤新月が条約に正式に書き込まれるのは、1929年である。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

本文

1864年、スイスのジュネーヴで、戦場で傷ついた兵士を敵味方の区別なく救うための条約が結ばれた(第一回ジュネーヴ条約)。ソルフェリーノの戦場の惨状を見たジュネーヴの実業家アンリ・デュナンの訴えが、その出発点だった。条約は、傷病兵を手当てする人々と病院を中立のものとして守ることを定め、そのしるしとして、白地に赤い十字の旗と腕章を決めた。スイスの国旗の色を逆にしたもので、条約を作った人々は、そこに宗教の意味は持たせていないと考えていた。

オスマン帝国は、その翌年の1865年に条約に加わった。ヨーロッパの国々の中でも早いほうである。帝国はこのころ、ヨーロッパの国際法の輪の中に入ろうとしていた。クリミア戦争ではイギリスやフランスと並んでロシアと戦い、1856年のパリ条約で、ヨーロッパの大国の協調の仲間として認められた。内では、法の前の平等をうたう改革(タンジマート)を進めていた。ジュネーヴ条約への加入も、近代の国家として振る舞う意思の表れだった。

クリミア戦争に関わる図版:William Simpson - Attack on the Malakoff
クリミア戦争Wikimedia Commons William Simpson, artist (1823-1899) E[dmond]. Morin, lithographer (1824 - 1882), working for "Day & Son, lithrs. to the · Public domain

だが、条約の上では中立のしるしでも、戦場でそれを見る人々にとっては、話が違った。十字は、キリスト教のしるしである。帝国の兵の多くはムスリムで、彼らにとって十字は、かつて中東に攻め込んだ十字軍の旗を思わせるものだった。1870年代、帝国の各地で救護の組織が作られ始めたが、ムスリムの兵や医療の担い手の中には、十字の腕章を付けることを嫌う者が多かった。

1875年から、帝国のバルカン半島の領土で反乱が相次ぎ、1876年にはセルビアとモンテネグロが帝国に戦いを挑んだ。戦場で、帝国の救護の人々は難しい立場に置かれた。十字の腕章を付けた救護員が、味方の兵から敵の手先と見なされて襲われることもあった、と伝えられる。

1876年11月、オスマン帝国の政府は、条約を預かるスイス政府に通知を送った。自国の救護の組織は、赤い十字の代わりに、白地に赤い新月のしるしを使う。相手の国が使う赤い十字は、これまでどおり尊重する。だから相手の国にも、赤い新月を同じように尊重してほしい、という内容だった。新月は、帝国の旗にも描かれていた、なじみ深い形である。

これは、条約に書かれていないことだった。救護を進める国際委員会は困惑した。しるしが増えれば、遠くからは見分けにくくなる。それぞれの国が自分の好きなしるしを使い始めれば、しるしで守るという仕組みそのものが揺らぐ。それでも、ムスリムの兵が十字を受け入れないという現実を前にして、委員会はこの通知を退けることもできなかった。

1877年、ロシアがオスマン帝国に戦争を仕掛けた。ロシアの救護の人々は赤い十字を、帝国の救護の人々は赤い新月を掲げた。両国は、相手のしるしを尊重することを約束し合った。この戦争のあいだに限った取り決めだったが、二つのしるしが戦場で並んで認められた最初の例になった。

しるしが条約に正式に書き込まれるまでには、半世紀かかった。そのあいだに、ペルシアは「赤い獅子と太陽」を求め、ほかにも独自のしるしを望む国が出てきた。1929年、ジュネーヴ条約が改められたとき、赤い十字に加えて、すでに使われていた赤い新月と、赤い獅子と太陽の二つが認められた。ただし、これ以上しるしを増やさない、という含みを持たせてである。のちにイランは1980年、王朝時代の象徴だった獅子と太陽をやめ、赤い新月に切り替えた。

それでも、問題は残った。イスラエルの救護の団体は、赤い「ダビデの盾」、つまり六つの角を持つ星を使ってきた。十字も新月も使わないこの団体は、長いあいだ国際的な運動に正式には加われなかった。2005年、宗教や国の意味を持たない三つ目のしるしとして、白地に赤い菱形の枠を描いた「赤いクリスタル」が条約の追加の取り決めで採り入れられ、翌年、イスラエルの団体も運動に加わった。

中立とは、言い張ることではない。ジュネーヴの人々は、十字に宗教の意味は無いと言った。だが、そのしるしを付けた人を撃つかどうかを決めるのは、戦場でそれを見る兵である。しるしは、見る側にとって中立に見えなければ、役に立たない。だから、しるしは一つにできなかった。そして、しるしを増やせば、それぞれがまた何かの信仰や国のしるしに見えてしまう。その板挟みの末に生まれたのが、何も意味しないことを意味する菱形だった。

いま、この運動は「国際赤十字・赤新月運動」と、二つの名を並べて呼ばれている。190を超える国の救護の団体が加わり、そのうち30あまりが赤い新月を掲げる。1876年にオスマン帝国が送った一通の通知は、人道のしるしが世界中で受け入れられるためには何が要るのかを、最初に問いかけたものだった。

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