バグダードの建設
概要
マンスールがティグリスの岸に円い都を作った。「平安の都」。直径2キロ、三重の壁、4つの門、中央にモスクと宮殿。10万人の職人。占星術師が着工の日を選んだ。50年で世界最大の都市になり、500年後にモンゴルが焼いた。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
関わった人(1)
マンスールAD714年–AD775年 · 建てた本文
762年、アッバース朝の2代目のカリフ、マンスールは、ティグリス川の西岸に新しい都の建設を始めた。正式な名はマディーナト・アッサラーム(平安の都)。人々はその土地の古い名をとって、バグダードと呼んだ。都は真円を描く城壁に囲まれ、中央にカリフの宮殿とモスクが置かれた。半世紀ほどのちには、世界で最も大きな都市の一つに数えられるまでになり、イスラーム世界の政治と学問と商業の中心として栄えた。
750年のアッバース革命でウマイヤ朝を倒したアッバース家は、それまでの都ダマスクスを捨てた。シリアはウマイヤ家の地盤で、アッバース家の支持者はイラクと東方のホラーサーンに多かったからである。初代カリフのサッファーフも、跡を継いだマンスールも、イラクのクーファの近くに仮の都を置いたが、クーファはアリーの子孫を支持するシーア派の人々が多く、カリフにとって安心できる場所ではなかった。758年には、マンスールを神のように崇める過激な一派が宮殿の周りで騒ぎを起こし、カリフ自身が危うい目に遭った。マンスールは、自分の新しい都を持つことを決めた。

場所を選ぶにあたって、マンスールは自らティグリス川の流域を見て回ったと伝えられる。選ばれたのは、ティグリス川とユーフラテス川が最も近づくあたりで、二つの川を結ぶ運河が通っていた。ティグリス川を下ればペルシア湾からインド洋へ、上ればシリアや小アジアへ、運河を通ればユーフラテス川へと、水の道が四方に通じていた。ここには以前から小さな村と市場があり、バグダードと呼ばれていた。名の由来はペルシア語で「神の与えたもの」とする説がよく知られるが、はっきりしない。すぐ南東には、かつてのササン朝ペルシアの都クテシフォンの廃墟があった。
新しい都の着工の日取りは、宮廷の占星術師たちが星の配置を見て決めた。ペルシア人のナウバフトと、ユダヤ系のマーシャーアッラーらが選んだ日は、762年7月30日だったと伝えられる。マンスールは、都の設計図を地面に描かせ、その線に沿って綿の実を置き、油を注いで火をつけさせて、燃える線で都の形を確かめたという。

都の形は、真円だった。直径は2キロあまりとも言われる。中心から外へ向かって、城壁が二重に巡らされ、その外側に深い堀が掘られた。城壁には四つの門が開き、それぞれクーファ門、バスラ門、ホラーサーン門、シリア門と、門の先にある土地の名で呼ばれた。四つの門から都の中心へまっすぐな道が通り、その中心に、カリフの宮殿と大モスクが並んでいた。宮殿は黄金の門の宮殿と呼ばれ、緑色の大きなドームがそびえ、その頂には槍を持った騎士の像が立っていた。騎士の槍が向いた方角から敵が来る、という言い伝えもあった。城壁と中心の間の環状の区画には、カリフの一族や側近、役人、兵士の住まいが置かれた。
建設には、帝国の各地から職人や労働者が集められた。その数は10万人にのぼったとも伝えられる。城壁は日干しと焼きのレンガで築かれ、4年ほどで主な工事が終わった。費用についても具体的な額が伝えられているが、どこまで信用できるかは分からない。マンスールは金の使い方に厳しく、職人への支払いの細かな額まで自ら確かめたという。人々は彼に「小銭の父」というあだ名をつけた。

円い都は、カリフと政府のための城だった。商人や庶民の暮らしは、すぐに城壁の外へあふれ出した。都の南のカルフ地区には市場が広がり、773年には、城内にあった市場も安全のために城外へ移された。マンスールの子のマフディーのためには、ティグリス川の対岸にルサーファの宮殿が建てられ、東岸にも町が広がっていった。バグダードは、円い城を核にして、川の両岸に広がる大都市になった。
9世紀の初め、5代カリフのハールーン・アッラシードの時代、バグダードは最も華やかな時を迎えた(ハールーン・アッラシードの治世)。中国の絹や陶磁器、インドの香辛料、アフリカの金や象牙が、船と隊商でバグダードに運び込まれた。人口は数十万とも、100万に近かったとも言われるが、確かな数は分からない。のちに『千夜一夜物語』で語られる華やかな都のイメージは、この時代のバグダードに重ねられたものである。7代カリフのマームーンの時代には、バグダードの知恵の館を中心に、ギリシア語やペルシア語、サンスクリット語の学術書がアラビア語に翻訳され、天文学や数学、医学が大きく発展した。

しかし、円い都そのものの寿命は長くなかった。ハールーンの死後、息子のアミーンとマームーンが帝位を争い、812年から翌年にかけてバグダードは包囲されて、円い都は大きな被害を受けた。836年には、カリフはトルコ人の軍人たちを連れて北のサーマッラーに都を移し(サーマッラーへの遷都)、50年あまりバグダードを離れた。都が戻ったあとも、宮廷は東岸に置かれ、円い都はしだいに荒れていった。10世紀には、緑のドームも嵐で崩れ落ちた。945年にはブワイフ朝のバグダード入城があり、カリフは政治の実権を失っていった。
1258年、モンゴルのフレグの軍がバグダードを囲んだ。2週間ほどの包囲ののち、最後のカリフ、ムスタアスィムは降伏し、殺された。モンゴル軍は町を略奪し、多くの住民を殺した。死者の数は、数万から数十万、さらには100万を超えるとする記録まであり、確かなことは分からない。ティグリス川は、投げ込まれた書物のインクで黒く、殺された人々の血で赤く染まったという言い伝えが残っている(バグダードの陥落)。アッバース朝のカリフの都としてのバグダードの歴史は、ここで終わった。

マンスールの円い都は、いまは何も残っていない。後の時代の町に飲み込まれ、その正確な場所さえ、はっきりとは分かっていない。いまのイラクの首都バグダードには、マンスールの名を冠した地区がある。円い都の姿は、9世紀や11世紀の書き手たちが残した記録の中にだけ、伝えられている。