できごと

バグダードの建設

Round City of Baghdad
AD762年
重要度 5
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)古シベリアの狩猟採集民サハラの遊牧民西アフリカの穀作農民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア吐蕃吐蕃東ローマ帝国フランク王国ヒンドゥーの諸王国原スラヴ系の人びとウイグルクシュ系の人びと後ウマイヤ朝カルルクチャールキヤ朝スウェーデン系の人びとカナウジシンド王国Kryvichsパーラ朝Baltsアヴァールマイトラカ朝ササン朝の従属国アクスム王国Ethiopian HIghland Peoplesハザール第一次ブルガリア帝国マクリアPallavasHejazWarsenisアルワLombard principalitiesカピシャ国NeustriaAuresNobatiaBegaMagyarsカシミール王国PolanesブレンミュエスKwarezmズンビール朝アランCuacasian AlbaniaSeveriansSabirsサクソン人West GetaesCzechsチャーハマーナ朝FrisiansMazunシンハラAD762年バグダード
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD762年の版図を描いています(58勢力)。

概要

マンスールがティグリスの岸に円い都を作った。「平安の都」。直径2キロ、三重の壁、4つの門、中央にモスクと宮殿。10万人の職人。占星術師が着工の日を選んだ。50年で世界最大の都市になり、500年後にモンゴルが焼いた。

場所

バグダード
33.32°N 44.37°E · イラク

関わった人(1)

マンスールAD714年–AD775年 · 建てた

本文

762年、アッバース朝の2代目のカリフ、マンスールは、ティグリス川の西岸に新しい都の建設を始めた。正式な名はマディーナト・アッサラーム(平安の都)。人々はその土地の古い名をとって、バグダードと呼んだ。都は真円を描く城壁に囲まれ、中央にカリフの宮殿とモスクが置かれた。半世紀ほどのちには、世界で最も大きな都市の一つに数えられるまでになり、イスラーム世界の政治と学問と商業の中心として栄えた。

750年のアッバース革命でウマイヤ朝を倒したアッバース家は、それまでの都ダマスクスを捨てた。シリアはウマイヤ家の地盤で、アッバース家の支持者はイラクと東方のホラーサーンに多かったからである。初代カリフのサッファーフも、跡を継いだマンスールも、イラクのクーファの近くに仮の都を置いたが、クーファはアリーの子孫を支持するシーア派の人々が多く、カリフにとって安心できる場所ではなかった。758年には、マンスールを神のように崇める過激な一派が宮殿の周りで騒ぎを起こし、カリフ自身が危うい目に遭った。マンスールは、自分の新しい都を持つことを決めた。

アッバース革命に関わる図版:Caliphate 750
アッバース革命Wikimedia Commons Sheperd, William R.; Historical Atlas; New York: Henry Holt and Company, 1911. 53. · Public domain

場所を選ぶにあたって、マンスールは自らティグリス川の流域を見て回ったと伝えられる。選ばれたのは、ティグリス川とユーフラテス川が最も近づくあたりで、二つの川を結ぶ運河が通っていた。ティグリス川を下ればペルシア湾からインド洋へ、上ればシリアや小アジアへ、運河を通ればユーフラテス川へと、水の道が四方に通じていた。ここには以前から小さな村と市場があり、バグダードと呼ばれていた。名の由来はペルシア語で「神の与えたもの」とする説がよく知られるが、はっきりしない。すぐ南東には、かつてのササン朝ペルシアの都クテシフォンの廃墟があった。

新しい都の着工の日取りは、宮廷の占星術師たちが星の配置を見て決めた。ペルシア人のナウバフトと、ユダヤ系のマーシャーアッラーらが選んだ日は、762年7月30日だったと伝えられる。マンスールは、都の設計図を地面に描かせ、その線に沿って綿の実を置き、油を注いで火をつけさせて、燃える線で都の形を確かめたという。

762年にマンスールが建設したバグダードの地図(767-912年頃)
762年にマンスールが建設したバグダードの地図(767-912年頃)Wikimedia Commons William Muir · Public domain

都の形は、真円だった。直径は2キロあまりとも言われる。中心から外へ向かって、城壁が二重に巡らされ、その外側に深い堀が掘られた。城壁には四つの門が開き、それぞれクーファ門、バスラ門、ホラーサーン門、シリア門と、門の先にある土地の名で呼ばれた。四つの門から都の中心へまっすぐな道が通り、その中心に、カリフの宮殿と大モスクが並んでいた。宮殿は黄金の門の宮殿と呼ばれ、緑色の大きなドームがそびえ、その頂には槍を持った騎士の像が立っていた。騎士の槍が向いた方角から敵が来る、という言い伝えもあった。城壁と中心の間の環状の区画には、カリフの一族や側近、役人、兵士の住まいが置かれた。

建設には、帝国の各地から職人や労働者が集められた。その数は10万人にのぼったとも伝えられる。城壁は日干しと焼きのレンガで築かれ、4年ほどで主な工事が終わった。費用についても具体的な額が伝えられているが、どこまで信用できるかは分からない。マンスールは金の使い方に厳しく、職人への支払いの細かな額まで自ら確かめたという。人々は彼に「小銭の父」というあだ名をつけた。

ガイ・ル・ストレンジによる復元図、マンスールの時代の円城バグダード(1900年)
ガイ・ル・ストレンジによる復元図、マンスールの時代の円城バグダード(1900年)Wikimedia Commons Guy Le Strange (24 July 1854 – 24 December 1933) · Public domain

円い都は、カリフと政府のための城だった。商人や庶民の暮らしは、すぐに城壁の外へあふれ出した。都の南のカルフ地区には市場が広がり、773年には、城内にあった市場も安全のために城外へ移された。マンスールの子のマフディーのためには、ティグリス川の対岸にルサーファの宮殿が建てられ、東岸にも町が広がっていった。バグダードは、円い城を核にして、川の両岸に広がる大都市になった。

9世紀の初め、5代カリフのハールーン・アッラシードの時代、バグダードは最も華やかな時を迎えた(ハールーン・アッラシードの治世)。中国の絹や陶磁器、インドの香辛料、アフリカの金や象牙が、船と隊商でバグダードに運び込まれた。人口は数十万とも、100万に近かったとも言われるが、確かな数は分からない。のちに『千夜一夜物語』で語られる華やかな都のイメージは、この時代のバグダードに重ねられたものである。7代カリフのマームーンの時代には、バグダードの知恵の館を中心に、ギリシア語やペルシア語、サンスクリット語の学術書がアラビア語に翻訳され、天文学や数学、医学が大きく発展した。

バグダードの知恵の館に関わる図版:Maqamat hariri
バグダードの知恵の館Wikimedia Commons Zereshk · Public domain

しかし、円い都そのものの寿命は長くなかった。ハールーンの死後、息子のアミーンとマームーンが帝位を争い、812年から翌年にかけてバグダードは包囲されて、円い都は大きな被害を受けた。836年には、カリフはトルコ人の軍人たちを連れて北のサーマッラーに都を移し(サーマッラーへの遷都)、50年あまりバグダードを離れた。都が戻ったあとも、宮廷は東岸に置かれ、円い都はしだいに荒れていった。10世紀には、緑のドームも嵐で崩れ落ちた。945年にはブワイフ朝のバグダード入城があり、カリフは政治の実権を失っていった。

1258年、モンゴルのフレグの軍がバグダードを囲んだ。2週間ほどの包囲ののち、最後のカリフ、ムスタアスィムは降伏し、殺された。モンゴル軍は町を略奪し、多くの住民を殺した。死者の数は、数万から数十万、さらには100万を超えるとする記録まであり、確かなことは分からない。ティグリス川は、投げ込まれた書物のインクで黒く、殺された人々の血で赤く染まったという言い伝えが残っている(バグダードの陥落)。アッバース朝のカリフの都としてのバグダードの歴史は、ここで終わった。

バグダードの陥落に関わる図版:Bagdad1258
バグダードの陥落Wikimedia Commons Sayf al-vâhidî et al. · Public domain

マンスールの円い都は、いまは何も残っていない。後の時代の町に飲み込まれ、その正確な場所さえ、はっきりとは分かっていない。いまのイラクの首都バグダードには、マンスールの名を冠した地区がある。円い都の姿は、9世紀や11世紀の書き手たちが残した記録の中にだけ、伝えられている。

同じ時代のできごと

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