ラージェーンドラ1世
概要
艦隊を仕立ててベンガル湾を越え、シュリーヴィジャヤの港を攻めた。インドの王朝が海の向こうへ軍を出した、数少ない例になる。
所属
チョーラ朝関わったできごと(2)
チョーラ朝の海上進出AD1025年 · 王チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征AD1025年 · 総指揮本文
ラージェーンドラ1世は、南インドのチョーラ朝を大国に押し上げたラージャラージャ1世の息子である。生まれた年ははっきりせず、970年前後とみられる。父の治世の後半には、すでに皇太子として軍を率い、西の強国西チャールキヤ朝との戦いに出ていた。1014年頃に王位を継ぎ、1044年に死ぬまで30年ほど治めた。

チョーラ朝の本拠は、カーヴェーリ川の三角州に広がる豊かな稲作地帯だった。父ラージャラージャ1世は、都タンジャーヴールに巨大な寺院を建て(タンジャーヴールの大寺院)、スリランカ北部やモルディブの島々まで兵を出した。ラージェーンドラはこれをさらに押し広げた。即位から数年のうちにスリランカの全土を攻め、シンハラ王を捕らえて南インドへ連れ帰ったと碑文は記す。王はそのまま捕囚の身で死んだとされる。
1020年前後、ラージェーンドラの軍は北へ向かい、デカン高原を越えて東インドを進み、ベンガルのパーラ朝の王を破ってガンジス川に達した。軍は聖なるガンジスの水を壺に入れて南へ持ち帰った。王はこの遠征を記念して「ガンジスを取ったチョーラ」を意味するガンガイコンダチョーラの名を名乗り、新しい都ガンガイコンダチョーラプラムを築いた。そこに父の寺院にならった大寺院を建て、ガンジスの水を注いだとされる大きな貯水池を造った。寺院は今も残り、世界遺産に登録されている。北インドを支配するための遠征ではなく、王の威光を示すための遠征だったとみられる。

そして1025年、チョーラの艦隊はベンガル湾を渡り、マラッカ海峡を押さえていた海の王国シュリーヴィジャヤの海上交易を攻めた(チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征)。タンジャーヴールの寺院の碑文には、攻め落とした港の名が並ぶ。スマトラのシュリーヴィジャヤの都、マレー半島のカダーラム(いまのケダとみられる)など、海峡の両岸の港が次々に襲われ、シュリーヴィジャヤの王は捕らえられたと記されている。
なぜインドの王が海を越えて軍を送ったのか。碑文は理由を語らない。有力なのは交易をめぐる説明である。当時、宋の中国とインド洋を結ぶ海の道は、マラッカ海峡を通るほかなかった。海峡の港を握るシュリーヴィジャヤは、通る船から関税を取り、中継の利を独占していた。チョーラの商人たちは南インドの港から東南アジア、中国へと手を広げており、その邪魔になる関所を叩いたのだと考えられている。チョーラは海峡の土地を長く治めることはせず、軍は引き揚げた。一方で、シュリーヴィジャヤが受けた打撃は大きく、この王国はこれ以後、かつての力を取り戻せなかったとされる。ただし遠征の規模や、どこまでを実際に攻めたのかについては、碑文の誇張を割り引くべきだという見方もある。

ラージェーンドラは中国にも目を向けていた。中国の歴史書『宋史』には、注輦(チョーラ)の使節が宋の都に来たことが記されており、その一つは1033年である。南インドから東南アジアを経て中国までを、一つの海の世界として見ていたことがうかがえる(チョーラ朝の海上進出)。チョーラの商人の組合の碑文は、のちにスマトラやタイ南部でも見つかっている。
王国の内政を支えたのは、村ごとの自治の仕組みと、寺院を中心とする経済だった。大寺院は土地と富を集め、灌漑や祭礼、芸能を動かす拠点になった。ラージェーンドラの時代の碑文は、村の会議が水路の管理や税の取り立てを担っていた様子を伝えている。

ラージェーンドラは1044年頃に死に、王位は息子たちに受け継がれた。チョーラ朝はその後も13世紀まで続くが、海を越えて大軍を送ることは二度となかった。インドの王朝が、海の向こうへこれほど大規模な遠征を行った例は、歴史の上でもほとんど無い。いまも南インドでは、海を渡った王として語られ、インド海軍の歴史を語るときにもその名が挙げられる。