ヘンリー・モートン・スタンリー
概要
ウェールズの私生児。救貧院。ニューオーリンズの商人の名を取った。南北戦争で両軍に。ニューヨーク・ヘラルドの記者。リヴィングストンを見つけ、コンゴを源から河口まで下り、レオポルド2世のためにコンゴ自由国を作った。「岩を砕く男」。
関わったできごと(1)
スタンリー、リヴィングストンに会うAD1871年11月10日 · 探した本文
ヘンリー・モートン・スタンリーは、1841年1月28日、ウェールズ北部のデンビーで、ジョン・ローランズという名で生まれた。両親は結婚しておらず、母は赤ん坊を親族に預けて去った。6歳のとき、近くのセント・アサフの救貧院に入れられ、15歳までそこで暮らした。

1859年、18歳の彼は、船の給仕としてアメリカのニューオーリンズに渡った。そこで、綿の仲買商ヘンリー・ホープ・スタンリーと知り合い、のちにその名を名乗った。自伝では、この商人が自分を養子にしてくれたと書いているが、そうした事実は確かめられない。スタンリーの語る生い立ちには、作り話が多く混じっている。
1861年に南北戦争が始まると、南軍に入ってシャイローの戦いで捕虜になり、収容所から出るために北軍に入り、のちには北軍の海軍にも加わった。戦後、新聞の記者になり、1868年には、イギリス軍のエチオピア遠征に従軍して、マグダラの陥落をどの新聞よりも早く伝えた。

ニューヨーク・ヘラルド紙の社主ゴードン・ベネットは、スタンリーに、アフリカで消息を絶っていたスコットランド人の宣教師・探検家デイヴィッド・リヴィングストンを探し出す仕事を与えた。1871年3月、スタンリーはアフリカ東岸のザンジバルを発ち、病と争いに苦しみながら内陸へ進んだ。11月、タンガニーカ湖のほとりの町ウジジで、彼はリヴィングストンに会った(スタンリー、リヴィングストンに会う)。そのとき「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」と言ったという有名な台詞は、彼の日記のその日の頁が破り取られており、後で作ったものではないかと疑われている。
1874年、スタンリーは新聞社の資金で、より大きな探検に出た。350人余りの隊を率いてヴィクトリア湖を一周し、タンガニーカ湖を調べたあと、ルアラバ川を下った。この川がナイルにつながるのかコンゴ川になるのかは、当時の地理の大きな謎だった。奴隷と象牙の商人ティップー・ティプの護衛を受けて森を抜け、川沿いの住民と何度も戦いながら下り続けた。1877年8月、大西洋岸に近いボマにたどり着いた。出発から999日、生き残ったのは一部で、3人のヨーロッパ人の仲間はすべて死んでいた。ルアラバ川はコンゴ川の上流だと分かった。
スタンリーはイギリスにコンゴの開発を説いたが、関心を示されなかった。手を差し伸べたのはベルギー王レオポルド2世だった。1879年から1884年まで、スタンリーは王の私的な事業のために働き、コンゴ川沿いに道を切り開き、拠点を築き、数百人の首長と土地と主権を譲らせる条約を結んだ。岩を砕いて道を作る彼を、現地の人々は「ブラ・マタリ」(岩を砕く者)と呼んだ。1884年から85年のベルリン会議(ベルリン会議とアフリカ分割)で、レオポルドの「コンゴ自由国」が国際的に認められた(コンゴ自由国)。

1887年から89年には、スーダンの反乱で孤立したエジプト側の総督エミン・パシャを救う遠征を率いた。イトゥリの熱帯雨林を抜ける行軍で多くの隊員が飢えと病に倒れ、後方に残した部隊は崩壊した。救出されたエミンは、実は助けを求めていなかったともいわれる。
1890年、遠征記『最暗黒のアフリカにて』を出し、画家ドロシー・テナントと結婚した。1892年にイギリス国籍に戻り、1895年から下院議員を務め、1899年にナイトに叙された。1904年5月10日、ロンドンで死んだ。63歳だった。ウェストミンスター寺院への埋葬は認められず、サリーのパーブライトの教会墓地に葬られた。墓石には「ブラ・マタリ」と刻まれている。

スタンリー自身の著作には、隊員や住民を鞭打ち、銃で撃った記述が多い。2007年に伝記を書いたティム・ジールは、彼が強い探検家に見せるために暴力を誇張して書いた面があると論じた。だが、彼が道を開いたコンゴ自由国では、その後、ゴムの採集を強いる苛酷な支配で膨大な数の人々が死んだ。死者の数には大きな幅のある推計があり、数百万から1000万人とも言われる。アフリカ分割(アフリカ分割)の時代を体現した人である。