人物

ジュリウス・ニエレレ

Julius Nyerere
AD1922年4月13日 – AD1999年10月14日(享年77)
タンザニア重要度 3

概要

独自の社会主義を試みて経済は行き詰まったが、自ら退いた。アフリカで在任中に平和的に権力を手放した早い例。

関わったできごと(1)

アフリカの年AD1960年 · タンガニーカ側

本文

1922年、ヴィクトリア湖の東岸に近いブティアマで、ザナキ人の首長の息子として生まれた。父には何人もの妻がいて、子どもの数も多かった。12歳になるまで学校に行かず、牛の番をして育った。当時のタンガニーカは、第一次世界大戦でドイツが失った植民地を、国際連盟の委任を受けたイギリスが治める土地だった。

ジュリウス・ニエレレの肖像
ジュリウス・ニエレレの肖像Wikimedia Commons Rob Mieremet / Anefo · CC0

学校に上がると、成績はずば抜けていた。タボラの中等学校から、隣のウガンダにあるマケレレ大学に進んで教員の資格を取り、カトリックの洗礼も受けた。故郷に戻ってミッションの学校で教えた後、1949年にイギリスのエディンバラ大学に留学し、歴史と経済学を学んだ。イギリスの大学で学んだ最初のタンガニーカ人の一人だった。教師出身で、生涯「ムワリム(先生)」と呼ばれた。

1954年、帰国したニエレレはタンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)を作った。武器を取らず、選挙と国際連合への訴えで独立を求める道を選んだ。1955年には国連の信託統治理事会で演説し、独立の時期を示すようイギリスに迫った。隣のケニアでは、ジョモ・ケニヤッタが投獄され、独立をめぐって血が流れていた。それに比べ、タンガニーカの独立は平穏に進んだ。アフリカの年の翌年、1961年12月に独立し、ニエレレは首相、翌年には大統領になった。

1985年にオランダを訪問したニエレレ(左)
1985年にオランダを訪問したニエレレ(左)Wikimedia Commons Rob Bogaerts for Anefo · CC0

1964年、沖合のザンジバル島で革命が起き、長く島を支配していたアラブ系の王政が倒された(かつての奴隷と丁子の島である。ザンジバルの丁子と奴隷市場)。同じ年、ニエレレは本土とザンジバルを合わせ、国名をタンザニアとした。同じ年には軍の反乱もあり、旧宗主国のイギリスに兵を頼んで鎮めるという屈辱も味わった。翌年、政党をTANU一つに限る一党制を法に定めた。民族ごとの政党が国を割るのを防ぐためだと説明した。

1967年、北部の町アルーシャで宣言を出し、ウジャマー(家族的共同体)という独自の社会主義を掲げた。銀行や大企業を国のものにし、指導者が副業や家賃収入を持つことを禁じた。外国の援助に頼らず、自分たちの手で農村から国を作り直す、という考えだった。ニエレレ自身は質素な暮らしを通し、私腹を肥やさない指導者として知られた。

ニエレレが教員養成課程で学んだウガンダのマケレレ大学本館
ニエレレが教員養成課程で学んだウガンダのマケレレ大学本館Wikimedia Commons OER Africa · CC BY 2.0

だが、農村を集団化する政策は思うように進まなかった。1970年代の半ば、ばらばらに暮らしていた農民を、学校や診療所のある計画村へ移す政策が全国で行われた。移住は次第に強制を伴い、家が焼かれることもあった。慣れない土地での集団の耕作は収穫を落とし、石油危機と干ばつが重なって、経済は行き詰まった。国は援助なしには立ちゆかなくなった。本人が後年、失敗だったと認めている。

一方で、やり遂げたこともある。120を超える民族がいる国で、スワヒリ語を共通語として学校と役所に据えた。自らシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』や『ヴェニスの商人』をスワヒリ語に訳している。民族対立が国を割ることを避けた。周りの国々が内戦やクーデターに揺れるなかで、タンザニアは大きな流血を経験しなかった。識字率は、政府の数字で独立時の1割台から、1980年代には8割を超えるまでに上がった。

エディンバラ大学オールドカレッジ
エディンバラ大学オールドカレッジWikimedia Commons LWYang from USA · CC BY 2.0

外に向けては、アフリカの解放を支える側に立った。アフリカ統一機構(アフリカ統一機構の設立)の創設に加わり、首都ダルエスサラームに、南アフリカやモザンビーク、ジンバブエなどの解放運動の事務所や訓練の場を置かせた。クワメ・エンクルマが唱えたアフリカの統一の理想にも共感しながら、まず一国ごとに足場を固めるべきだと考えていた。1978年、ウガンダの独裁者イディ・アミンの軍が北西部に攻め込むと、ニエレレは反撃してウガンダに攻め入り、翌年首都カンパラを落としてアミンを追った。戦費は、すでに苦しかった経済をさらに追い詰めた。

そして1985年、自分から退いた。大統領の座を後継者に譲り、その後も与党の議長は数年続けたが、やがて故郷のブティアマに戻って畑を耕した。1990年代の初めには、自分が作った一党制をやめて複数政党制に移るよう、むしろ後押しした。アフリカで、在任中の指導者が平和的に権力を手放した早い例になる。

インド独立運動の指導者マハトマ・ガンディー。ニエレレは非暴力運動で彼に触発された
インド独立運動の指導者マハトマ・ガンディー。ニエレレは非暴力運動で彼に触発されたWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

晩年は、ブルンジの内戦の和平の仲介役を務めた。1999年10月14日、白血病のためロンドンの病院で死んだ。77歳だった。のちにカトリック教会は、彼を聖人に列するための調べを始めている。

経済政策の評価は低い。権力の手放し方の評価は高い。そして、民族ではなくタンザニア人という意識を一代で作ったことは、多くの国が今も果たせずにいる仕事として評価されている。

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