陳興道
概要
モンゴル軍を三度退けた将。白藤江に杭を沈めて艦隊を沈めた戦術で知られる。
関わったできごと(1)
白藤江の戦い(元寇撃退)AD1288年 · 大越側 · 総指揮本文
陳朝の王族の将になる。本名は陳国峻。興道王に封じられたので、陳興道の名で知られる。生年は1228年頃とされるが、数年の幅がある。

生まれは複雑だった。父の陳柳は初代の陳太宗の兄である。1237年、実権を握っていた一族の長老・陳守度は、子のない太宗のために、身ごもっていた陳柳の妻を取り上げて太宗の皇后にした。陳柳は兵を挙げて敗れ、恨みを抱いたまま死んだ。死の床で、息子に天下を取れと言い残したと『大越史記全書』は書く。陳国峻はその言葉を胸にしまったまま、従わなかった。のちに息子の一人が帝位を奪うよう勧めたとき、剣を抜いて斬ろうとしたという話も伝わっている。
もう一つ、同じ史書が伝える逸話がある。王族のなかには、太宗の子で宰相の陳光啓という競争相手がいた。二人は仲が悪かったが、モンゴルの脅威が迫ると、陳国峻は自ら湯を沸かして陳光啓の体を洗い、和解したという。国難を前に一族の争いを収めた人物として、彼は描かれている。
13世紀、大越(大越)にはモンゴルが三度攻め込んだ。一度目の1258年は、雲南を落としたモンゴル軍が南下してきた戦いで、若い陳国峻も国境の守りに就いた。都は落とされたが、モンゴル軍は暑さと病に苦しんで引き揚げた。
フビライ・ハンが元を立てると、圧力は強まった。元はチャンパを攻めるための道を大越に求め、王の入朝を迫った。1284年、陳国峻は全軍の総指揮を任され、将兵に檄文を書いた。敵の使者が道を我が物顔で歩き、宰相を罵り、皇帝を侮っているのに、我々は何をしているのか、と問いかける。自分は食事も忘れ、夜は枕を濡らしている、と書き、遊びにふけって備えを怠る将たちを叱りつけた。兵に読み聞かせるための文章で、いまもベトナムで読まれ、学校で暗誦される。王の側も、国を挙げて戦う構えをとった。上皇は国中の長老を延洪の殿に集め、降るべきか戦うべきかを問い、長老たちは声をそろえて戦えと答えたと伝えられる。降伏を拒む決定を、朝廷の外の人々にも担わせる場だった。兵士たちは腕に「殺韃」、つまりモンゴルを殺す、という字を彫って戦ったと伝えられる。
1285年、二度目の侵攻が来た。クビライの子トゴンの大軍が北から、ソゲトゥの軍がチャンパから南へ回り込んで挟み撃ちにした。陳国峻は正面からぶつからず、都を捨てて退いた。田を焼き、住民を退避させ、補給を断つ。元の軍が疲れたところで反撃に転じ、ソゲトゥは戦死し、トゴンは命からがら北へ逃げ帰った。
1287年、三度目の侵攻では、元は大艦隊で兵糧を運ぼうとした。その補給船団を、別の将の陳慶余が雲屯の沖で沈めた。飢えた元の軍は退却を決め、水軍は白藤江を下って海へ出ようとした。1288年、陳国峻はそこで艦隊を沈めた(白藤江の戦い(元寇撃退))。350年前の呉権と同じ、杭を使う方法になる。元の将オマルは捕らえられた。

クビライは4度目の遠征を計画したが、果たせないまま死んだ。大越での失敗と、同じころの元寇の失敗は、海の向こうへの元の拡大の限界を示すことになった。大越は、勝った後すぐに元へ使いを送って朝貢の形をとり、それ以上の戦いを避けた。
陳国峻は兵法書も書いたとされるが、まとまった形では残っていない。1300年、死の床を見舞った王に、国を守る策を問われ、民の力をゆるめて根を深くし、本を固めることが最上の策だと答えたと伝えられる。戦の勝ち方ではなく、民に重い負担をかけないことを最後に説いた。その年の秋に死んだ。
死後、神として祀られた。ベトナム北部の劫泊には彼を祀る祠があり、聖陳として民間の信仰を集める。悪霊を払う神としても拝まれ、いまも祭りには多くの人が集まる。ハノイやホーチミン市の大通りにはその名が付き、ベトナムの歴史で最も偉大な将軍の一人に数えられている。