メリナ王国のマダガスカル統一
概要
高地の王国が、イギリスから銃を得て島の大半をまとめた。宣教師を招いて文字を導入し、奴隷貿易をやめる代わりに武器を受け取る取引をした。
場所
-18.88°N 47.51°E · マダガスカル
関わった人(1)
ラダマ1世AD1793年–AD1828年7月27日 · 統一した本文
マダガスカルは、アフリカ大陸の東の沖に浮かぶ、日本の1.5倍ほどの大きな島だ。最初に住みついたのは、はるか東の島々から海を渡ってきたオーストロネシア系の人々だったとされ(マダガスカルへの到達)、のちにアフリカ大陸からも人が渡ってきた。島の言葉マラガシ語は、いまもインドネシアのボルネオ島の言葉に近い。18世紀の島には、海岸のサカラヴァ人の王国をはじめ、いくつもの王国と首長国が並び立っていた。
島の中央の高地、標高1200メートルを超える台地に住んでいたのがメリナ人だった。水田で稲を作り、人口は多かったが、18世紀には小さな王国に分かれて争っていた。それを一つにまとめたのが、1787年ごろに王位についたアンドリアナンプイニメリナで、彼はアンタナナリヴを都に定め、灌漑の水路を広げ、法を整えた。海こそが我が水田の境だ、という言葉を残したと伝えられる。島全体を手に入れるという野心は、息子に託された。

1810年、その息子ラダマ1世が17歳ほどで王位を継いだ。ちょうどそのころ、インド洋の勢力図が変わっていた。ナポレオン戦争の中で、イギリスはフランスから東の沖のモーリシャス島を奪い、総督ロバート・ファーカーはマダガスカルに目を向けた。フランスの影響を締め出し、イギリスの奴隷制廃止法へと向かう本国の方針に沿って、インド洋の奴隷貿易を断ちたい。それには島の有力な王と手を組むのが早い。
1817年、ラダマ1世とイギリスは条約を結んだ。ラダマは奴隷の輸出を禁じる。その見返りに、イギリスは毎年、金と銀、銃と弾薬、軍服を贈り、軍事顧問を送る。そしてラダマを「マダガスカルの王」と認めた。奴隷の売却で富を得ていた貴族や商人からは強い反発が出たが、ラダマは押し切った。イギリスの代理人ジェームズ・ヘイスティが王の相談役となり、条約は1820年に改めて結ばれた。

イギリス式の訓練を受け、銃で武装した常備軍が作られた。それまでの王たちの軍は、戦のたびに集める農民の兵だった。ラダマはこの軍を率いて東海岸の港町トアマシナを押さえ、南の高地のベツィレウ人を従え、西のサカラヴァ人の王国にも攻め込んだ。島のおよそ3分の2がメリナの支配に入ったとされる。ただし南部と西部の一部は最後まで従わず、統一は完全なものではなかった。
1818年、ロンドン伝道協会の宣教師が島に着き、1820年からはアンタナナリヴで学校を開いた。ラダマは彼らに、マラガシ語をラテン文字で書き表す方法を作らせ、1823年には綴り方を定めた。母音はフランス式、子音は英語式に読むという折衷だった。聖書の翻訳が始まり、数年のうちに島の高地では数千人の子どもが読み書きを学んだ。技術者の宣教師たちは、織物や鍛冶、皮なめしの技も伝えた。文字は信仰だけでなく、王国の命令を地方へ届ける道具にもなった。

1828年、ラダマは35歳で病死した。王位を継いだのは王妃のラナヴァルナ1世で、彼女は夫とは逆の道を選んだ。外国人の宗教と習慣が王国の伝統と祖先の祭りを壊していると考え、1835年にキリスト教を禁じ、宣教師を島から退去させた。改宗した者の中には処刑された者も多く、外国との関係は30年あまりにわたって細った。ただし、宣教師が持ち込んだ読み書きの力は宮廷の書記たちに残り、王国の行政を支え続けた。
ラナヴァルナ1世が1861年に亡くなると、王国はふたたび外へ開いた。1869年には女王と宰相がそろって洗礼を受け、プロテスタントが事実上の国の宗教になる。だが19世紀の後半、ヨーロッパの列強がアフリカを分け合う時代(アフリカ分割)がやってきた。イギリスはマダガスカルをフランスの勢力圏と認め、フランスは1883年と1895年に軍を送った。1896年、マダガスカルはフランスの植民地として併合され、翌年に王政は廃止されて、最後の女王ラナヴァルナ3世は国外へ送られた。

外の大国から武器と承認を得て内側を統一し、その代わりに相手の求めに応じる。統一のあとには、外の影響への反動が来る。そして最後には、統一された国そのものが列強に呑み込まれる。メリナ王国がたどった道は、同じ時代のアフリカやアジアの多くの王国が歩んだ道とよく似ている。いまのマダガスカルの国境と、アンタナナリヴを首都とする国の形は、このときメリナ王国がまとめた島の姿から始まっている。