ティプー・スルタン
概要
ハイダル・アリーの子。「マイソールの虎」。フランス人の将校を雇い、ロケット部隊を作り、絹と紙と貨幣を整え、暦を作った。フランス革命政府に使者を送り、ジャコバン・クラブの会員になった。ナポレオンがエジプトから手紙を書いた。4回の戦争。1799年、セリンガパタムの門で刀を持って死んだ。「羊として100年生きるより、虎として1日」。インドの民族主義の英雄で、ヒンドゥー教徒の弾圧者とも言われる。
関わったできごと(1)
セリンガパタムの陥落AD1799年5月4日 · 門で死んだ本文
ティプー・スルタンは、1751年11月20日、南インドのデーヴァナハッリ(いまのバンガロールの北)で生まれたとされる。生年月日には諸説あり、1750年とする記録もある。父ハイダル・アリーは、マイソール王国の軍人から身を起こし、ヒンドゥーの王家を名目上残したまま実権を握った人である。ハイダルは自分は読み書きができなかったが、息子にはペルシア語、アラビア語、ウルドゥー語、カンナダ語、イスラームの学問と法、乗馬と射撃を学ばせ、フランス人の将校から軍事を習わせた。
18世紀のインドでは、ムガル帝国の力が衰え、各地の勢力が争うなかに、イギリス東インド会社が入り込んでいた。会社はプラッシーの戦いでベンガルを手に入れ、南インドでも勢力を広げようとしていた。マイソールは、その前に立ちはだかる最大の敵の一つになった。

ティプーは10代で第1次マイソール戦争に加わった。1780年に始まった第2次マイソール戦争では、父とともに会社の軍を何度も破った。1782年末、父が戦陣で死ぬと、31歳のティプーが跡を継いだ。1784年、マンガロールの条約で、互いに占領地を返す形で講和した。会社がインドの君主とほぼ対等の講和を結んだのは、これが最後になった。
ティプーは「マイソールの虎」と呼ばれた。虎を自らの象徴とし、兵の軍服、玉座、貨幣、大砲や剣の飾りに虎の縞と頭を刻ませた。イギリス兵を虎が襲う姿をかたどった、音の出る木製の仕掛け人形「ティプーの虎」は、のちに戦利品としてロンドンに運ばれ、いまもヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にある。羊として百年生きるより、虎として一日生きるほうがよい、という言葉も彼のものとして伝わる。

彼は国を作り変えようとした。独自の暦を定め、新しい貨幣と度量衡を作り、土地の調査と税の仕組みを整えた。中国から蚕を取り寄せて絹の生産を興し、国営の工場や交易の拠点を置いた。マイソールの軍は、鉄の筒を使ったロケットを大量に使い、イギリス兵を驚かせた。このロケットはのちにイギリスに持ち帰られて研究され、イギリス軍のロケット兵器のもとになった。
ティプーはムスリムの君主で、臣民の多くはヒンドゥー教徒だった。都シュリーランガパトナの宮殿はヒンドゥーの大寺院のすぐそばにあり、隣国のマラーターの兵に荒らされたヒンドゥー教の僧院シュリンゲリには、修復のための寄進と敬意を込めた手紙を送っている。その一方で、西海岸のマラバールやコダグ(クールグ)では、反乱を抑える中で多くのヒンドゥー教徒やキリスト教徒を強制的に改宗させ、移住させ、寺院を壊したことが記録に残る。どちらの面を強く見るかで、今日のインドでも彼の評価は大きく割れている。

イギリスに対抗するため、ティプーはフランスとの同盟を求めた。1787年にはフランス王ルイ16世のもとに使節を送った。フランス革命の後、都にいたフランス人たちはジャコバン・クラブを作り、「自由の木」を植えた。ティプーもその会員として「市民ティプー」と呼ばれたと伝わる。1799年の初めには、エジプトに遠征していたナポレオン・ボナパルトから手紙が送られたが、イギリスに奪われて届かなかった(ナポレオンのエジプト遠征)。
1790年からの第3次マイソール戦争では、会社がマラーターやハイデラバードと手を組み、総督コーンウォリス自らが軍を率いた。1792年、ティプーは領土の半分を割譲し、二人の息子を人質に差し出して講和した。1799年、総督ウェルズリーはフランスとの結びつきを口実に第4次の戦争を始め、都シュリーランガパトナを囲んだ。5月4日、城壁が破られると、ティプーは自ら剣を取って戦い、城門の近くで撃たれて死んだ。40代の後半だった。翌日、彼は父の霊廟の隣に葬られ、イギリス軍は軍の礼をもって見送った。

マイソールには、ハイダルが実権を奪う前の王家が呼び戻され、イギリスの保護下に置かれた。南インドで会社に抵抗できる大きな勢力は、これで姿を消した。ティプーの蔵書の多くはイギリスに渡り、剣は200年後の2004年、ロンドンの競売でインドの実業家に買い戻された。