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Person / 人

ティーボー王

Thibaw Min
AD1859年1月1日 – AD1916年12月19日(享年57)
コンバウン朝重要度 3

概要

コンバウン朝の最後の王。僧院で学んだ穏やかな王子が、宮廷の争いの中で王に立てられ、即位のとき、王族80人以上が殺された(王妃スパヤラットの主導と伝える)。フランスに近づいてイギリスを警戒させた。1885年、王宮を追われ、牛車で川へ。インドのラトナギリで31年、監視の下に暮らして、死んだ。遺骨はビルマに帰っていない。

関わったできごと(1)

ビルマの併合AD1885年11月28日 · 流された

本文

1859年1月1日、マンダレー。ミンドン王の40人以上の息子の一人。母は王の第4位の妃で、寵を失って修道院に入れられていた。ティーボーは僧院で学んだ(パーリ語の試験に合格した)。政治的に無害な、学問好きの王子と見られていた。

1878年、ミンドンが死んだ。ミンドンは、王位継承をめぐる殺し合いを避けるために、皇太子を指名していなかった(彼自身、兄を倒して王になった)。

宮廷。シンビューマシン(ミンドンの妃の一人)が、自分の娘スパヤラットをティーボーに嫁がせ、彼を王に立てた。無害で操れる、と考えた(スパヤラットは、それより強かった)。

1879年2月、王族の粛清。王子と王女とその子、80人以上(数は諸説)。伝統に従い、王族の血を地に流さないために、赤いビロードの袋に入れて、棍棒で打つか、象に踏ませた。3日間、宮殿の中で音楽が演奏されて、音を消したと伝える。イギリスの新聞が書き立てた。実際には、ミンドンの即位のときにも、同じことが行われていた。

ティーボーの治世、7年。彼は酒を飲み(僧院育ちの彼が飲み始めたのは即位後だと言われる)、スパヤラットが政治を握った。宮廷は分裂し、大臣は自分の利益で動いた。下ビルマ(1852年からイギリス領)から来る安い米と綿製品で、上ビルマの経済は苦しかった。

外交。イギリスの高圧的な要求(王への謁見の際に靴を脱ぐ慣習を、イギリス代表が拒んだ「靴問題」で、1879年から公使が引き揚げていた)に対抗して、フランスに近づいた。1885年1月、フランスと通商条約。フランスの銀行、鉄道、そして武器の供給の話が進んだ(フランス政府は本国では慎重だったが、領事が独走した)。イギリスは、トンキンでフランスと対立していた。上ビルマがフランスの影響下に入れば、インドの東の側面が脅かされる。

1885年8月、木材の罰金。ボンベイ・ビルマ商会は、報告した2倍のチークを伐り、現地の役人に賄賂を渡していた。ビルマの裁判所が23万ポンドの罰金を科した。会社はロンドンに訴え、ランドルフ・チャーチル(インド担当相)が動いた。

10月22日、最後通牒。11月9日、ビルマの回答(罰金の件はイギリスの仲裁を受け入れるが、外交権の放棄は拒む)。

11月14日、開戦。イギリス・インド軍9000が、川船55隻でイラワジを遡った。ミンフラの砲台で短い戦闘。あとはほとんど無血。11月26日、ビルマ軍が降伏した。11月28日、マンダレー入城。

11月29日。ティーボー、スパヤラット、妹の第二王妃、母、そして侍女たち。牛車2台で、王宮の門を出て、川岸まで2キロ、歩かされた。イギリス将校が案内し、シク兵が両側に並んだ。市民が沿道に伏し、泣いた。ある目撃者は書いた。「王は震えていた。王妃は、まっすぐ前を見て歩いた」。

汽船トゥリア号でラングーンへ、そして船でマドラス、最後にインドのラトナギリ(ボンベイの南、アラビア海に面した小さな町)。

31年。海の見える丘の上の、2階建ての家。年金と、監視。彼は英語を学ばず、ビルマの服を着続けた。娘4人が生まれた。第一王女は、家の門番だったインド人の男との間に子を産んだ(王妃は激怒し、その娘は生涯ラトナギリを出られなかった)。ティーボーは、酒と、時間と、祖国からの手紙のない日々の中で、1916年12月19日に死んだ。57歳。

彼はラトナギリに埋葬された。ビルマ(ミャンマー)は、繰り返し、遺骨の返還を求めてきた。まだ帰っていない。

マンダレーの王宮は、1945年3月、日本軍が立てこもり、イギリス軍の砲撃と空爆で焼けた。いまの建物は1990年代の再建。