ターリコータの戦い
概要
デカンのスルタン諸国が連合してヴィジャヤナガルを破った。都は略奪されて放棄され、廃墟がハンピに残る。
場所
16.47°N 76.31°E · インド・カルナータカ州
本文
14世紀の前半、南インドのトゥンガバドラ川のほとりにヴィジャヤナガル王国が興った。北から押し寄せるイスラームの勢力に対して、ヒンドゥーの王たちがまとまって立てた国とされ、「勝利の都」を意味するその名のとおり、16世紀の初めには南インドの大半を治める大国になっていた。都には巨大な寺院と宮殿が並び、訪れたポルトガルの旅行者は、ローマほどの大きさがあり、世界で最も豊かな町の一つだと書き残している。
北のデカン高原には、イスラームの君主の国々があった。14世紀に興ったバフマニー朝が15世紀の末に割れ、ビジャープル、アフマドナガル、ゴールコンダ、ビーダル、ベラールの五つのスルタン国になった。この国々は、互いに国境と港をめぐって争い続けていた。

ヴィジャヤナガルは、その争いに乗じた。一方のスルタン国に味方して別のスルタン国を攻め、見返りに土地を取る。クリシュナデーヴァラーヤの時代には、軍事でも文化でも国は頂点を迎えた。その死後、王位は名ばかりの王に移り、実権を握ったのは摂政のラーマ・ラーヤだった。ラーマ・ラーヤは、スルタンたちを巧みに操り、時には同盟相手の国の町を荒らし、スルタンたちを辱めたとも伝わる。
ヴィジャヤナガルの富の一つは、軍馬だった。南インドでは良い馬が育たず、アラビアやペルシアから海を渡って運ばれてくる馬を買い集めていた。ゴアに拠点を置いたポルトガルは、その馬の取引で利益を上げていた。騎兵を養う力が、デカンの国々の強さを決めた。
度重なる屈辱に、普段は争っていたスルタンたちが手を結んだ。ビジャープル、アフマドナガル、ゴールコンダ、ビーダルの四つが連合し、婚姻で結びつきを固めた。ベラールが加わったかどうかについては、史料によって違う。
1565年1月、両軍はクリシュナ川のほとりで向き合った。戦場はターリコータの町から少し南に離れていたが、のちにこの町の名で呼ばれるようになる。ヴィジャヤナガルの軍は数で優っていたとされる。ラーマ・ラーヤは80歳に近い高齢で、自ら出陣し、輿に乗って軍を指揮した。
戦いの経過は、諸説ある。初めはヴィジャヤナガルが押していたが、連合軍の大砲が隊列を崩したとも、ヴィジャヤナガルの軍に雇われていたムスリムの指揮官二人が、戦いの最中に部隊ごと寝返ったとも書かれている。いずれにせよ、ラーマ・ラーヤは捕らえられ、アフマドナガルのスルタンの前に引き出されて、その場で首を斬られた。首が槍の先に掲げられると、ヴィジャヤナガルの軍は総崩れになった。
連合軍は都に入った。王家と貴族は財宝を象に積んで南へ逃れ、残された都は略奪された。略奪は5か月から6か月続いたと伝わる。寺院が壊され、宮殿が焼かれ、石の神像や柱の彫刻は打ち欠かれた。2年後に都を訪れたイタリアの商人は、町が無人になり、野の獣が住みついていると書いている。
勝ったスルタンたちの連合は、すぐにまた元の争いに戻った。彼らはヴィジャヤナガルの都を自分たちの都にはしなかった。デカンのスルタン国も、やがて北から南へ勢力を広げてきたムガル帝国の成立に、17世紀のうちに一つずつ呑み込まれていく。
ヴィジャヤナガルの王家は南のペヌコンダ、さらにチャンドラギリへと都を移し、国はなお80年ほど続いたが、各地の総督たちが自立していき、17世紀の半ばに消えた。南インドのマドゥライやタンジャーヴール、マイソールなどの地方の王国は、ヴィジャヤナガルの総督から自立したものだった。
都には二度と人が戻らなかった。花崗岩の巨岩が転がる丘と川のあいだに、寺院と宮殿の跡が、そのまま残された。いまハンピと呼ばれるこの廃墟は、1986年に世界遺産に登録された。石の車をかたどったヴィッタラ寺院の祠や、打ち欠かれたまま立つ巨大な神像が、500年近く前の略奪のあとを伝えている。