東ティモールの独立
概要
24年の占領と住民投票を経た。21世紀最初の独立国になる。
場所
-8.56°N 125.56°E · 東ティモール
本文
ティモール島は、インドネシアの東の端、オーストラリアの北に浮かぶ島である。16世紀からポルトガル人が白檀を求めてやって来て、やがて島の東半分を植民地とした。西半分はオランダが押さえ、のちにインドネシアの一部になる。島は、二つの植民地の境目で分けられていた。
1974年、ポルトガル本国で独裁を倒す革命が起き、新しい政府は植民地を手放す方針を打ち出した(ポルトガル帝国)。東ティモールでは、独立を求める政党、ポルトガルとの関係を残そうとする政党、インドネシアとの統合を求める政党が生まれ、1975年8月には内戦に陥った。勝った独立派は、11月28日に独立を宣言した。
その9日後の12月7日、インドネシア軍が首都ディリに攻め込んだ。共産主義の広がりを恐れたスハルト政権(インドネシアの九・三〇事件)は、独立派を左派とみなしていた。侵攻の前日には、アメリカの大統領と国務長官がジャカルタを訪れていた。翌年、インドネシアは東ティモールを27番目の州として併合したが、国連はこれを最後まで認めなかった。

占領は24年に及んだ。独立派の軍は山にこもって戦い続け、インドネシア軍は村を焼き、住民を強制的に移住させた。のちに設けられた真相究明の委員会は、1974年から1999年までに、殺害や、飢えと病によって10万人あまりが命を落としたと推計している。侵攻前の人口が60万あまりだったことを考えれば、その重さが分かる。
占領のあいだ、カトリック教会は人々のよりどころになった。インドネシアは国民に公認の宗教を持つことを求め、土地の精霊を祀る信仰を持っていた人々の多くがカトリックに入った。教会は占領下で数少ない、人々が集まり、外の世界へ声を届けられる場だった。侵攻の前には人口の3割ほどだった信者が、占領の終わりには9割を超えたとされる。

1991年11月12日、ディリのサンタクルス墓地で、追悼の行進に集まった若者たちにインドネシア軍が発砲した。死者は数十人とも250人以上ともいわれる。その場にいたイギリス人の記者が撮影した映像が国外へ持ち出され、世界に流れた。遠い島の出来事が、初めて多くの人の目に触れた。
翌1992年、抵抗運動の指導者シャナナ・グスマンが捕らえられた。1996年には、カトリックのベロ司教と、国外で独立を訴え続けたラモス=ホルタにノーベル平和賞が贈られた。

転機は、インドネシアの側から来た。1998年、アジア通貨危機の中でスハルトが退陣する(スハルトの退陣)。後を継いだハビビ大統領は、東ティモールの人々に自分で行く末を決めさせると表明した。1999年8月30日、国連の監視のもとで住民投票が行われ、投票率は98%を超え、78.5%が自治案を拒んで独立を選んだ。
結果が発表されると、併合派の民兵がインドネシア軍の一部の後押しを受けて、町を焼き、人を殺した。建物の多くが壊され、住民の多くが山や西ティモールへ逃れた。9月、オーストラリアを中心とする多国籍軍が入って秩序を取り戻し、国連が暫定の行政を担った(国際連合の成立)。
2002年5月20日、東ティモールは独立し、獄中から戻ったシャナナ・グスマンが初代の大統領になった。21世紀最初の独立国である。公用語にはテトゥン語とポルトガル語が選ばれた。
独立の後も道は平らではなかった。2006年には軍の内部の対立から騒乱が起き、再び外国の部隊が呼ばれた。国の財政は、ティモール海の海底の石油と天然ガスに大きく頼っている。その海の境界をめぐってはオーストラリアと長く争い、2018年にようやく条約が結ばれた。かつての占領者インドネシアとは、いまは隣国として付き合いを重ねている。