トンディビの戦い
概要
モロッコ軍が砂漠を越え、火縄銃でソンガイを破った。西アフリカの大帝国の時代がここで終わる。
場所
16.50°N -1.30°E · マリ・ガオ州
本文
16世紀の終わり、ソンガイはなお西アフリカで最も大きな国だった(ソンガイ帝国の最盛期)。ニジェール川に沿って、ガオ、トンブクトゥ、ジェンネといった町を押さえ、サハラを越える交易の南の端を握っていた。だがアスキア・ムハンマドのソンガイの時代から半世紀あまりがたち、宮廷では王位をめぐる争いがくり返されていた。
サハラの北では、モロッコのサアド朝のスルタン、アフマド・マンスールが力を強めていた。1578年、ポルトガルの王がモロッコに攻め込んで戦死すると(三王の戦い)、マンスールは捕虜の身代金で莫大な富を得た。彼が次に目をつけたのが、サハラの南の金だった。マリやソンガイを通って北へ運ばれる金を、源から押さえようとしたのである。
口実になったのは、サハラの真ん中のタガザにある岩塩の鉱山だった。塩は南の国々で金と同じほど求められる品で、この鉱山の帰属をめぐって両国は争ってきた。マンスールは、塩鉱の税を納めるよう求め、ソンガイの王アスキア・イスハーク2世はこれをはねつけた。
1590年の秋、遠征軍がマラケシュを発った。率いたのはスペイン生まれのジュダル・パシャである。兵はおよそ4000で、その多くが火縄銃を持っていた。イベリア半島から移ってきた人々や、キリスト教から改宗したヨーロッパ人の兵も多かった。
これに大量の駱駝と輜重の人々が加わり、4か月あまりかけて砂漠を越えた。途中で多くの兵が倒れた。砂漠を大軍で越えることなどできない、というのがそれまでの常識だった。
1591年3月13日、両軍はガオの北、トンディビで出会った。ソンガイの軍は騎兵と歩兵合わせて数万を数えたとされ、兵の数では圧倒していた。だが武器は槍と弓と刀だった。年代記によれば、ソンガイは先頭に牛の群れを放って敵陣へ突っ込ませたが、銃声に驚いた牛が向きを変え、自軍の列へ逃げ込んだという。
戦いは一日で決着した。火縄銃の一斉射撃の前に、ソンガイの騎兵は崩れた。アスキア・イスハークは南へ逃れた。
ところが、勝った側の思いどおりにはならなかった。都のガオに入ったジュダルが見たのは、思い描いた黄金の都ではなかった。ソンガイの王は講和を申し出、多くの金を差し出すと約束したが、マンスールはこれを退けて、ジュダルを別の将軍に替えた。戦いはその後も続き、南へ逃れたソンガイの王族は、ニジェール川の下流で抵抗の国を保った。
1593年、モロッコの軍はトンブクトゥの学者たちが反抗をあおっているとして捕らえ、マラケシュへ送った。その中には、のちに名高い法学者となるアフマド・バーバもいた。蔵書は奪われ、学問の都の輝きは失われた。
マンスールは金を手にし、「黄金の王」とあだ名された。しかし1603年に彼が死ぬと、本国は内乱に陥り、遠い南の領土を治める力を失う。現地に残ったモロッコ兵とその子孫は「アルマ」と呼ばれ、パシャを自分たちで選んで、トンブクトゥ周辺を治め続けた。
ソンガイが崩れると、サハラを越える交易の流れも変わった。ニジェール川の湾曲部を通る西の道は寂れ、東のハウサの諸都市(ハウサ諸都市とカノ)やボルヌ(カネム=ボルヌの隆盛)を通る道が、その分の商いを引き受けるようになった。かつてのマリ帝国から続いた、ニジェール川の大帝国が交易を束ねる形は、ここで途切れる。
征服は、交易を戻さなかった。治安が崩れた砂漠の道を、商人たちは避けるようになった。その頃すでに、ポルトガルなどヨーロッパの船が西アフリカの大西洋岸に拠点を構え(エルミナ城の建設)、金はそちらへ流れ始めていた。サハラ交易と結びついた西アフリカの大帝国の時代は、ここで終わる。