できごと

スコータイ朝とタイ文字

Thai script
AD1283年
重要度 3
元キプチャク汗国チャガタイ汗国イル汗国チベットヒンドゥーの小王国群デリー・スルタン朝シュリーヴィジャヤクメール帝国スコータイ朝パガン朝日本ハドラマウトKashmir and Ladakh高麗大越Kediri大越オリッサマスカットアイヌモシリチャンパアチェパーンディヤ朝シンハラ王国AD1283年スコータイ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1283年の版図を描いています(25勢力)。

概要

タイ文字が作られたと碑文が伝える。上座部仏教を柱とする国の形がここで定まる。

場所

スコータイ
17.01°N 99.82°E · タイ

関わった人(1)

ラームカムヘーンAD1237年頃–AD1298年頃 · 碑文に名が刻まれる

本文

13世紀のなかば、チャオプラヤー川の上流に近いスコータイで、タイ人の首長たちがクメールの支配から離れて自分たちの王を立てた。それまでこの一帯は、クメール帝国の勢力圏の北の端にあり、寺院の様式も役人の言葉もクメールのものだった(アンコールの隆盛)。初代の王シーインタラーティットの子のうち、三男が王位を継いで国を大きくする。それがラームカムヘーンである。

この王の名を後世に伝えるのが、高さ1メートルあまりの四角い石柱に四面びっしりと文字を刻んだ碑文である。碑文は自分の来歴から語り起こす。19歳のとき、父の軍が敵に押されて崩れかけたところへ象を進め、敵の王と象の上で一騎打ちをして退けた。その手柄で父から名を与えられた、という。続いて、大暦1205年(西暦1283年)に王が心を砕いてタイ文字を作り、それがこの碑に刻まれている、と記す。

ラームカムヘーンの碑文。現在、確認されている中で、タイ文字による最古の碑文である。
ラームカムヘーンの碑文。現在、確認されている中で、タイ文字による最古の碑文である。Wikimedia Commons Ananda · Public domain

文字はクメール文字をもとに、タイ語の音に合わせて作り直したものと考えられている。タイ語は音の高さで意味を分ける言葉なので、声調を書き分ける工夫がいる。碑文の文字は母音記号を子音と同じ行に並べて書いており、母音を子音の上下に添える今のタイ文字とは配置が違う。のちに形も配置も変わっていくが、今のタイ文字の祖とされるのはこの系統である。

碑文の中身は、王国の暮らしぶりと統治の理想を語る部分がよく知られている。「水に魚あり、田に米あり」と豊かさをうたい、市場での売り買いに税をかけないこと、牛や馬を引いて商いに行くのも自由であることを述べる。訴えのある者は宮殿の門に吊るした鐘を鳴らせばよく、王が自ら聞いて裁く、とも書く。月の満ち欠けに合わせて僧が石の玉座で説法し、王が森の寺へ参ったことにも触れている。

バンコクのマクドナルド。Mマークと「McDonald's」の間にあるのはラテン文字風の「แมคโดนัลด์」(メークドーナン)
バンコクのマクドナルド。Mマークと「McDonald's」の間にあるのはラテン文字風の「แมคโดนัลด์」(メークドーナン)Wikimedia Commons Sry85 · CC BY 3.0

仏教の面では、南のナコーンシータンマラートからスリランカ系の上座部仏教の高僧を招いたことが記される。それまでのクメールの宮廷は、ヒンドゥー教と大乗仏教を重んじていた。スコータイの王はスリランカ系の僧団を支え、仏塔と寺院を建てて、自らを仏法を守る王として示した。王が民の父のように振る舞い、上座部仏教が国の柱になる、という形がここで打ち出される。

もっとも、スコータイの繁栄は長く続かなかった。ラームカムヘーンの死後、従っていた周辺の国々が離れ、14世紀なかばには南にアユタヤ朝が起こる(アユタヤ朝の成立)。スコータイはやがてその属国となり、15世紀には吸収された。文字と仏教の伝統は、アユタヤを経て今のタイへ受け継がれていく。

ラームカムヘーン碑文(バンコク国立博物館)
ラームカムヘーン碑文(バンコク国立博物館)Wikimedia Commons Iudexvivorum · CC0

碑文が見つかったのは1833年、のちのラーマ4世モンクットが出家してスコータイ周辺を巡っていたときのことである。タイ文字の起源とタイ人の国家の出発点を示すものとして重んじられ、近代タイの国民の歴史はこの碑から書き起こされるようになった。2003年にはユネスコの「世界の記憶」に登録されている。

一方で、1980年代の後半から、この碑文は19世紀に作られたのではないかという説が出た。ほかの13〜14世紀の碑文と比べて文字の配置や綴りが整いすぎていること、語彙や内容に後の時代を思わせる点があること、発見者が国の改革を進めた王族自身だったことなどが論拠とされた。これに対して、碑文の言葉遣いを詳しく調べた研究や、石の風化を調べた分析から、13世紀末の作とする反論が重ねられた。今は真作とみる研究者が多いが、後から一部が刻み足されたとする折衷の説もあり、論争が完全に終わったわけではない。

ラームカムヘーン大王の肖像
ラームカムヘーンWikimedia Commons Ananda · Public domain

確かなのは、この碑文が真作であれ後の作であれ、タイの人々が自分たちの国の始まりをどう思い描いてきたかを示していることである。豊かな田と川、税の軽い市場、鐘を鳴らせば聞いてくれる王。その像は、今もタイの教科書の最初のほうに置かれている。

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