サーマッラーへの遷都
概要
ムウタスィムはトルコ人の奴隷兵(マムルーク)を数千人買い、バグダードの民と兵が衝突し、新しい都をティグリスの上流に建てた。「見る者が喜ぶ」。50年。9人のカリフのうち4人がトルコ兵に殺された。螺旋のミナレット。街は一直線に40キロ。
場所
34.20°N 43.87°E · イラク
関わった人(1)
ムウタスィムAD796年–AD842年1月5日 · 建てた本文
9世紀の初め、アッバース朝の都バグダード(バグダードの建設)は、人口数十万を抱える世界有数の大都市になっていた。だがハールーン・アッラシード(ハールーン・アッラシードの治世)の死後、その二人の息子が位を争う内戦が起き、バグダードは包囲されて荒れた。勝ったマームーンは、王朝を支えてきたホラーサーンの兵や、バグダードの民兵がもう当てにならないと感じていた。
マームーンの弟のムウタスィムは、兄の代から、自分の財で中央アジアのトルコ系の奴隷を買い集め、兵として育てていた。草原の遊牧の民の出身で、馬の上から弓を射る技に優れ、故郷とのつながりを持たない彼らは、買い主にだけ忠実な兵になると考えられた。のちに中東の各地で力を持つ奴隷の軍人(マムルーク)の、早い例である。833年、カリフの位を継ぐと、ムウタスィムはさらに多くのトルコ兵を集めた。その数は数千から、のちには数万にのぼったとされる。

トルコ兵はバグダードで嫌われた。言葉も習慣も違う兵が、狭い通りを馬で駆け抜け、女や子どもや老人を踏みつけることがあり、怒った民が兵を襲って殺す事件が相次いだ。それまで王朝の軍の中心にいたアラブやホラーサーン系の兵も、給料と地位を奪われて不満を募らせた。ムウタスィムは、兵と民を引き離すため、都を移すことを決めた。
選ばれたのは、バグダードからティグリス川を125キロほどさかのぼった東岸の土地で、キリスト教の修道院があるほかは、ほとんど人の住まない原野だった。836年、新しい都の建設が始まった。町の名は、アラビア語で「見る者は喜ぶ」を意味する言い回しに由来すると説明されてきたが、実際にはもっと古い土地の名をそう読み替えたものとみられている。何十キロにも延びる大通りが引かれ、宮殿、兵営、市場、競馬場が次々に造られた。トルコ兵には町の中に自分たちの区画が与えられ、ほかの住民と交わらないように住まわせた。

ムウタスィムの孫のムタワッキルの時代に、サーマッラーはもっとも大きくなった。848年から852年にかけて建てられた大モスクは、240メートルに150メートルあまりの広さで、長いあいだ世界最大のモスクだった。その北に立つマルウィヤと呼ばれるミナレット(塔)は、高さ50メートルを超え、外側をらせん状の坂が巻き上がっていく独特の形をしている。古代メソポタミアの聖塔ジッグラトを思わせる姿で、いまも上まで登ることができる。ムタワッキルは町のさらに北にもう一つの町を造り、そこにも同じ形のらせんの塔を持つアブー・ドゥラフのモスクを建てた。町は川沿いに40キロ以上も延び、宮殿の壁には踊り子や酒を注ぐ女の姿が描かれた。
だが、カリフを守るために集めたトルコ兵は、やがてカリフを左右する存在になった。861年12月、ムタワッキルは、息子のムンタスィルとトルコの将軍たちの企てによって、宴の席で殺された。それから9年の間に、ムンタスィルは即位の半年後に急死し(毒殺とも噂された)、ムスタイーン、ムウタッズ、ムフタディーの3人は相次いで退けられ、殺された。トルコの将軍たちがカリフを立てては殺した、この時期は「サーマッラーの無政府」と呼ばれる。カリフの権威は地に落ち、地方では総督たちが自立していった。

892年、カリフのムウタディドは都をバグダードに戻した。サーマッラーが都だったのは56年あまりにすぎず、巨大な町の大部分はそのまま打ち捨てられた。おかげで9世紀のイスラームの都市の姿が、ほとんど手つかずのまま地中に残った。1911年からドイツのヘルツフェルトらが発掘を始め、宮殿の壁画や、型押しの漆喰の装飾が見つかった。2007年、町の遺跡は世界遺産に登録されたが、戦乱のため同時に危機遺産にもなった。
サーマッラーは、シーア派の人々にとっても大切な町である。シーア派の多数派が数える12人のイマームのうち、10代目のアリー・ハーディーと11代目のハサン・アスカリーは、カリフの監視の下でこの町に住まわされ、ここで死んだ。そして11代目の幼い息子ムハンマドは、874年ごろに人々の前から姿を消し、いつか救世主として戻ってくる「隠れイマーム」とされた。二人のイマームを祀る金色のドームの廟は、2006年2月に爆破され、翌年には残った二本の尖塔も壊された。最初の爆破は、イラクのシーア派とスンナ派の間で報復の殺し合いが広がるきっかけになった。廟はその後、建て直されている。