パチャクテク
概要
小さな王国を帝国に変えた。マチュ・ピチュを築き、道路網でアンデス全域を結ぶ。
所属
インカ帝国関わったできごと(3)
インカ帝国の拡大AD1438年 · 拡大を主導パチャクティの拡大AD1438年 · 王マチュピチュの建設AD1450年頃 · 建てた本文
インカの人々は文字を持たなかった。王たちの事績は、結び目を付けた紐の記録(キープ)と語り部の記憶によって伝えられ、スペインによる征服の後に、スペイン人の年代記作者たちが聞き取って書き残した。パチャクテクの生涯も、そうした記録から組み立てられている。王家ごとに伝承が違い、年代も確かではない。即位を1438年頃とするのは、後の年代記の数字をもとにした推定で、研究者の間には異論もある。

生まれたときの名はクシ・ユパンキという。父ビラコチャ・インカは、アンデス南部の盆地クスコを中心とする小さな王国の王だった。当時のクスコは、周りの民族とせめぎ合う数ある勢力の一つにすぎなかった。父が後継者に選んでいたのは、別の息子のインカ・ウルコだった。
15世紀の前半、西の強力な民族チャンカがクスコに攻め寄せた。年老いた父王と後継者の兄は、勝ち目がないと見て都を捨て、近くの砦に逃れた。若いクシ・ユパンキは、わずかな仲間とともに都に残った。年代記によれば、激しい戦いのさなか、周りの石が戦士に変わって味方した、という。伝説はともかく、彼はチャンカを撃退し、逃げた父と兄に代わって人々の支持を集めた。そして位に就き、パチャクテクと名乗った。ケチュア語で「世界をひっくり返す者」「大地を作り変える者」といった意味である。

その名のとおり、彼はクスコという町を作り変えた。都を流れる二つの川を石で整え、宮殿と神殿を建て直した。太陽の神殿コリカンチャは、壁を金の板で覆ったとされる。都の全体を、ピューマの姿に見立てて設計したという伝承もある。都の北の丘には巨大な石の砦サクサイワマンの工事が始まった。インカの石組みは、モルタルを使わず、形の違う石を削って隙間なく組み合わせる。刃物一枚差し込めないといわれるその壁は、地震の多いこの土地で、のちのスペイン人の建物が崩れても残った。
アンデスの山中、ウルバンバ川を見下ろす尾根の上に築かれたマチュ・ピチュも、この時代のものとされる(マチュピチュの建設)。王家の離宮として造られたと考えられており、王の死後も、その一族が管理したらしい。

パチャクテクは、征服によって王国を帝国に変えた(パチャクティの拡大)。やり方には型があった。まず使者を送り、服属すれば地元の首長の地位を保証し、贈り物を与える。拒めば攻める。征服した土地の神像を人質のようにクスコへ運び、首長の子どもたちを都で育てた。反乱の恐れがある民族は、まるごと遠く離れた土地へ移住させ、代わりに忠実な民を送り込んだ。この強制移住は「ミトマ」と呼ばれ、民族の結びつきを断つための手段だった。
広がった国を一つにまとめる仕組みも整えられた。国はクスコを中心に四つの地方に分けられ、国の名は「タワンティンスウユ」(四つの地方が一つになったもの)と呼ばれた。人々は国の土地を耕し、道や建物を造る労働で税を納め、その実りは各地の倉に蓄えられた(チューニョと倉)。道路網が山と谷と海岸を結び、飛脚がそれを走り継いで、知らせを都へ運んだ(インカ道)。共通の言葉としてケチュア語が広められ、太陽の神を国の神とする祭儀が整えられた。死んだ王はミイラにされ、生きているかのように仕えられて、その一族が領地と財産を受け継いだ。王の歴史を整理し直したのもパチャクテクだとされる。

戦いの多くは、やがて息子のトパ・インカ・ユパンキに任された。トパは北のエクアドル方面へ、さらに海岸の大国チムーへと兵を進め、これを併合した(インカによるチムー併合)。パチャクテクは1471年頃、位をトパに譲り、まもなく亡くなったと伝えられる。
帝国の拡大は、パチャクテク、トパ、その子ワイナ・カパックの三代でほぼ成し遂げられた(インカ帝国の拡大)。北はいまのエクアドルとコロンビア南部から、南はチリ中部まで、南北4000キロに及ぶ。小さな盆地の王国が、わずか90年ほどで、アメリカ大陸で最大の国家になった。

だが、その帝国も長くは続かなかった。ワイナ・カパックの死後に王位をめぐる内戦が起き、その直後の1532年、スペインのフランシスコ・ピサロが少数の兵とともに現れる(インカ帝国の滅亡)。パチャクテクのミイラは、征服の後にスペイン人の役人によって見つけ出され、リマへ送られたが、その後の行方は分かっていない。
いまペルーでは、パチャクテクはインカの最も偉大な王として、クスコの広場に像が立っている。彼が残した石の壁の上に、スペイン人が教会を建て、その教会がいまも残る。クスコの町並みは、二つの文明が重なってできている。