ナポレオン3世
概要
ナポレオンの甥。2度クーデターに失敗して、要塞に6年、ロンドンに亡命。1848年、大統領。1851年、クーデター。皇帝。パリの大改造(オスマン)、鉄道、銀行、クリミア、イタリア、メキシコ(失敗)、自由貿易。労働者に近づき、農民に愛された。スダンで捕まり、イギリスで死んだ。「小ナポレオン」とユゴーが呼んだ。
関わったできごと(3)
ルイ・ナポレオンのクーデターAD1851年12月2日 · クーデターオスマンのパリ改造AD1853年 · 命じたスダン(セダン)の戦いAD1870年9月1日 · 降伏した本文
1808年4月20日、パリで生まれた。父はナポレオン・ボナパルトの弟でオランダ王となったルイ、母はナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌの連れ子オルタンスである。両親の仲は冷え切っていた。ナポレオンが敗れた1815年、ボナパルト家はフランスから追放され、彼は母とともにスイスのボーデン湖畔、アレネンベルクの城で育った。叔父の栄光の物語を聞かされて大きくなった少年だった。

1831年、兄とともにイタリアの反乱に加わったが、兄は陣中で病死した。翌年には叔父の一人息子ナポレオン2世がウィーンで亡くなり、ボナパルト家の帝位を主張する者として彼の名が挙がるようになる。彼は自分が叔父の後継者になる運命にあると信じて疑わなかった。
1836年、ストラスブールの守備隊を蜂起させてパリへ進もうとしたが、たちまち捕らえられ、アメリカへ送られた。1840年にはロンドンからブローニュに上陸して再び兵を挙げ、また失敗した。今度は北フランスのアムの要塞に終身禁錮となった。6年に及んだ幽閉を、彼は後に「アム大学」と呼んだ。経済や社会の本を読みあさり、1844年に小冊子『貧困の絶滅』を書いて、国が荒れ地を開墾させて労働者に仕事を与える構想を説いた。1846年、修理に入った職人の服を借りて門を抜け出し、ロンドンへ逃れた。
1848年2月、パリで革命が起き、王政が倒れた(1848年革命)。彼は帰国して議員に選ばれ、12月の大統領選挙に出た。男子普通選挙のこの選挙で、彼は550万票近く、7割を超える票を得た。農民にとって「ナポレオン」の名は、それだけで秩序と栄光を意味した。しかし大統領の任期は一度きりと憲法で決まっていた。1851年12月2日、叔父の戴冠と同じ日を選んでクーデターを起こし、議会を解散した(ルイ・ナポレオンのクーデター)。抵抗した人々は銃撃され、数多くが流刑にされた。翌1852年の同じ日、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世となった。

第二帝政の初めの10年は、新聞を取り締まり、選挙を役人が操る権威主義の体制だった。一方で彼は、国が金融と公共事業で経済を動かすべきだと考える、サン・シモン派の思想に近い皇帝でもあった。新しい銀行が鉄道や工業へ資金を流し、鉄道の総延長は帝政のあいだに5倍ほどに延びた。1853年にはセーヌ県知事オスマンにパリの大改造を任せた(オスマンのパリ改造)。狭く入り組んだ中世の街路を壊し、まっすぐな大通り、上下水道、公園、街灯を整えた。広い通りはバリケードを築きにくくするためでもあったと言われる。1855年と67年にはパリで万国博覧会が開かれた。
外交では、叔父が敗れたヨーロッパの秩序を書き換えることを目指した。1854年、イギリスとともにロシアと戦い(クリミア戦争)、パリでの講和会議を主宰して、フランスの威信を取り戻した。1858年にはサルデーニャの首相カヴールとひそかに約束を結び、翌年、オーストリアとの戦争に自ら出陣した。しかしソルフェリーノの戦場で死傷者の山を見て動揺し、同盟国に相談せずにオーストリアと休戦してしまった(『ソルフェリーノの思い出』)。それでも見返りにニースとサヴォワを得て、イタリア統一への道を開いた。

1860年代に入ると、彼は体制を少しずつ緩め、「自由帝政」へ舵を切った。1860年にはイギリスと通商条約を結んで関税を大きく下げ、1864年には労働者のストライキを認めた。この時期の失敗が、メキシコへの介入である。借金の取り立てを名目に軍を送り、オーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝に据えた。だがメキシコの人々の抵抗と、南北戦争を終えたアメリカの圧力で撤兵を余儀なくされ、1867年、取り残されたマクシミリアンは銃殺された。1866年、プロイセンがオーストリアを破るのを、彼は手をこまねいて見ていた。1869年、皇后ウジェニーがスエズ運河の開通式に臨んだのは(スエズ運河の開通)、帝政の最後の華やぎだった。
1870年7月、スペインの王位をめぐる外交の行き違いをビスマルクにあおられ、フランスはプロイセンに宣戦した。持病の膀胱結石に苦しみ、馬に乗るのもやっとだった皇帝は自ら前線に出て、9月2日、スダンで10万の兵とともに降伏した(スダン(セダン)の戦い)。2日後、パリで共和政が宣言され、第二帝政は終わった。翌年にはパリ・コミューンの内乱が続いた。

ドイツでの捕囚を解かれた彼は、イギリスのチズルハーストに移り、1873年1月9日、結石の手術のあと64歳で亡くなった。ただ一人の息子ルイは、イギリス軍の士官として南アフリカに赴き、1879年にズールー人との戦いで戦死した。皇后ウジェニーは1920年まで生きた。
亡命先から彼を「小ナポレオン」と呼んだユゴーの言葉と、歴史は一度目は悲劇として、二度目は茶番として繰り返すと書いたマルクスの評は、長く彼の定まった姿だった。しかし20世紀の終わりから、近代のパリと鉄道網と銀行を作り、普通選挙を手放さなかった皇帝として、見直しも進んでいる。偉大な叔父の名で権力を得て、その名に見合う勝利を求め続け、最後にそのために国を失った人だった。