モハーチの戦い

概要
スレイマン1世の軍が、2時間でハンガリー軍を潰した。20歳の王が逃げる途中で沼に沈んだ。ハンガリーは三つに割れ、150年オスマンの下に置かれる。
場所
45.99°N 18.68°E · ハンガリー
関わった人(1)
スレイマン1世AD1494年–AD1566年 · 総指揮本文
15世紀のハンガリー王国は、オスマン帝国の北への進出を食い止める壁だった。1456年にはフニャディ・ヤーノシュがベオグラードでメフメト2世の軍を退け(ベオグラードの包囲(1456年))、その子のマーチャーシュ王は強い常備軍を持って中欧の大国を築いた。だが1490年にマーチャーシュが死ぬと、貴族たちは弱い王を選び、王の財政と軍は痩せ細った。1514年には大規模な農民の反乱が起き、鎮圧の後、農民は土地に縛りつけられた。国は内側から弱っていた。
1520年、オスマン帝国ではスレイマン1世が即位した。翌1521年、スレイマンは最初の遠征でベオグラードを落とした。ハンガリーの南の守りの要が失われた。ハンガリー王ラヨシュ2世は、1516年に10歳で位を継いだ若い王で、ハプスブルク家の皇女マリアを妃に迎えていた。西ヨーロッパに助けを求めたが、神聖ローマ皇帝カール5世はフランスとの戦争に追われ、宗教改革で揺れるドイツからもまとまった援軍は来なかった。

1526年4月、スレイマンは大軍を率いてイスタンブルを発ち、ドナウ川をさかのぼった。兵力は5万から10万まで推定に幅があり、多くの大砲を引いていた。ハンガリー側が集められたのは2万5000ほどだった。トランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュの軍や、クロアチアの部隊は、まだ到着していなかった。総司令官を務めたのは、軍人あがりのカロチャ大司教トモリ・パールである。援軍を待つべきだという声もあったが、ハンガリー軍はドナウ西岸のモハーチの平原で決戦を選んだ。
8月29日の午後、戦いが始まった。ハンガリーの重装騎兵は突撃して最初の陣を押し込んだが、オスマン軍の奥に並んだ大砲と、常備の歩兵イェニチェリの銃火の前で止まった。そこへ側面からオスマンの騎兵が回り込み、ハンガリー軍は崩れた。戦いは2時間ほどで終わった。夕方から雨が降り、退く兵は沼地と川に追い込まれた。20歳のラヨシュ2世は戦場から逃れる途中、増水した小川を馬で渡ろうとして落ち、鎧の重さで溺れて死んだ。遺体は数週間後に見つかった。

ハンガリー側の損害は壊滅的だった。トモリ大司教を含む7人の司教、多くの大貴族、1万を超える兵が死んだ。捕虜の多くも処刑された。9月、スレイマンは都のブダに入ったが、この年は占領を続けず、町を略奪して引き揚げた。
王の死で、ハンガリーは二人の王を持つことになった。貴族の多くは、国内の有力者サポヤイを王に選んだ。一方、亡き王の妃の兄で、ラヨシュの姉を妻にしていたハプスブルク家のフェルディナントも、婚姻の取り決めに基づいて王位を主張し、別の貴族たちに選ばれた。二人の王の内戦に、スレイマンはサポヤイを支える形で介入した。1529年にはハプスブルクの本拠ウィーンを包囲したが、落とせなかった(第一次ウィーン包囲)。

1541年、オスマンはブダを占領して直接支配の下に置いた。ハンガリーは三つに割れた。西と北の細い帯はハプスブルク家の王領、中央の大平原はオスマン帝国の州、東はオスマンに貢ぎ物を納めるトランシルヴァニア公国である。国境の砦をめぐる戦いが絶えず、中央の平原では村々が荒れた。この分裂は150年続いた。1683年の第二次ウィーン包囲に失敗したオスマンは押し戻され、1686年にブダがハプスブルク軍に奪い返された。1699年の講和で、ハンガリーの大部分がハプスブルク家の領土になった。
モハーチは、ハプスブルク家にとっては転機でもあった。フェルディナントは同じ1526年、ラヨシュが兼ねていたボヘミアの王位も手に入れた。ドナウ川沿いにオーストリア、ボヘミア、ハンガリーをまとめる、のちのハプスブルク君主国の骨組みが、この敗戦から生まれたことになる。

同じ1526年の4月、インドのパーニーパットでも、火砲を備えた軍が数で勝る敵を破っている(第一次パーニーパットの戦い)。ハンガリーでは、モハーチは国の滅びの記憶として語り継がれてきた。「モハーチではもっと多くのものを失った」という言い回しがあり、小さな損失を慰めるときに使われる。それほどの負けを基準にしてきたということである。戦場の跡には、1976年に記念の公園が作られ、見つかった集団墓地の上に木の墓標が立ち並んでいる。