指紋による身元確認
概要
指紋が個人ごとに違い、生涯変わらないことは、19世紀に複数の人が指摘した。日本で医師として働いたヘンリー・フォールズが1880年に『ネイチャー』に発表し、犯罪捜査への利用を提案した。実用にするには、数万枚の指紋から一致するものを探し出す分類法が要る。ベンガル警察のアジズル・ハックとヘム・チャンドラ・ボースが、渦と弓と蹄の形で1024の区分に分ける方式を作った。上司の名を取って「ヘンリー式」と呼ばれる。1901年、ロンドン警視庁が採用した。
場所
22.57°N 88.36°E · インド・西ベンガル州
本文
指先の模様が人によって違うことには、古くから気づかれていた。中国や日本では、契約書や証文に指の跡を押す習わしがあり、唐代の文書にもその例がある。ただし、それは本人がその場で押したという儀礼の意味が強く、模様を照らし合わせて本人を確かめたわけではない。ヨーロッパでは、1684年にイギリスのネヘミア・グルーが指先の隆線を顕微鏡で観察して書きとめ、1788年にはドイツのマイヤーが、隆線の並びは二人として同じではないと記した。1823年には、チェコの生理学者プルキニェが指紋の模様を9種類に分けている。それでも、この模様を人の身元を確かめるために使おうと考えた者はいなかった。
最初に実際に使ったのは、インドにいたイギリスの役人である。天文学者ウィリアム・ハーシェルの孫にあたるウィリアム・ジェームズ・ハーシェルは、東インド会社の役人としてベンガルのジャンギプルに勤めていた。1858年、道路工事の資材の契約を結ぶとき、彼は地元の業者に、契約書へ手のひらの跡を押させた。照合のためではなかった。

手の跡を残させれば、相手は約束を破りにくくなるだろうという、心理の効き目を狙ったのである。その後、彼は年金を二重に受け取る者を防ぐため、また囚人の身元を確かめるために、指の跡を取るようになった。自分の指紋も何十年にわたって取り続け、若いころと年老いてからの指紋を並べて、模様が変わっていないことを確かめている。
犯罪の捜査に使えると最初に公にしたのは、日本で働いていたスコットランド人の医師だった。ヘンリー・フォールズは宣教医として1874年に来日し、東京の築地に病院を開いて診療し、医学を教えた。彼はある日、日本の古い土器のかけらに、作った人の指の跡が残っているのに目をとめた(縄文土器)。動物学者モースが大森貝塚を発掘したころのことである。興味を持ったフォールズは、周りの人々の指紋を集めて比べ、指先の皮をアルコールで洗ったり軽く削ったりしても、同じ模様がまた生えてくることを確かめた。

1880年10月28日、フォールズの手紙がイギリスの科学誌『ネイチャー』に載った。彼はそこで、指紋は人ごとに違い、生涯変わらないこと、そして犯行の現場に残された指の跡から犯人を突き止められることを書いた。実例も挙げている。病院でアルコールが盗まれたとき、コップに残った指の跡から職員の一人を割り出した。別の事件では、疑われていた男の指紋が現場の跡と合わないことを示し、無実を明らかにした。指紋を捜査に使うことを提案した、最初の公刊された文章とされる。
翌月、ハーシェルが同じ雑誌に、自分は20年前からインドで指紋を使っていると投稿した。どちらが先かをめぐる争いはその後も長く続き、フォールズは生涯、自分の功績が正当に認められないことに苦しんだ。彼はロンドン警視庁に指紋の採用を提案したが、取り合ってもらえなかった。当時のヨーロッパでは、フランスのアルフォンス・ベルティヨンが考えた、体の各部の長さを測って記録する方法(ベルティヨンの人体測定法)が、犯罪者の身元確認の最先端とされていた。

指紋を科学の対象として整理したのは、チャールズ・ダーウィンのいとこにあたるフランシス・ゴルトンである。統計学者で、人の素質は遺伝で決まると考え、のちに優生学と呼ばれる考えを唱えた人物でもある。彼が指紋に期待したのは、模様から人種や気質や罪を犯しやすい性質が読み取れることだった。しかし膨大な指紋を集めて調べた結果、そのような関係は見つからなかった。
ゴルトンはそれを認め、代わりに次のことを確かめた。指紋は一生変わらないこと。二人の指紋が偶然に一致する見込みはきわめて小さく、彼の計算では約640億分の1であること。そして模様が、弓の形、ひづめの形、渦の形の三つの系統に大きく分けられることである。1892年、彼はその成果を『指紋』という本にまとめた。

それでも、すぐには実用にならなかった。三つの系統に分けただけでは、何万枚もの記録の中から一枚を探し出すことはできない。ひづめ形の模様だけで全体の6割以上を占めるからだ。必要なのは、大量の記録を機械的に絞り込める分類のやり方だった。
その答えを出したのが、インドのベンガル州警察だった。警察長官のエドワード・ヘンリーは、イギリスでゴルトンを訪ねてその方法を学び、インドへ持ち帰った。そして彼の下で働いていた二人のインド人の警官、アジズル・ハックとヘム・チャンドラ・ボースが、実際に使える分類の仕組みを作り上げた。10本の指を2本ずつ5組に分け、それぞれの指に渦の形があるかどうかを見る。

指の位置ごとに決められた点数を足し合わせて分数の形にすると、1から1024までのどれかの番号が出る。記録のカードは、1024の引き出しのどれかに収まる。さらに細かい区分を重ねれば、目当てのカードは数十枚まで絞り込める。数学の素養があったハックが、計算の仕組みを考えたとされる。
1897年、ベンガル総督府はこの方式の採用を決め、インドでは体を測る方法から指紋に切り替えられた。方式は上司の名を取って「ヘンリー式」と呼ばれた。ヘンリーは1901年にロンドン警視庁の幹部に迎えられ、イギリスに指紋による身元確認を持ち込み、のちに警視総監になった。一方、ハックとボースの名は長く表に出なかった。二人はのちに報奨金と称号を与えられ、ヘンリーも二人の助力を認める手紙を残しているが、仕組みの中身を考えたのが誰だったかが広く語られるようになったのは、ずっと後のことである。近年はインドとバングラデシュで、二人の功績を見直す動きが広がっている。

同じころ、地球の反対側でも指紋の採用が進んでいた。アルゼンチンのブエノスアイレス州警察で働いていたクロアチア出身のフアン・ブセティッチは、ゴルトンの研究をもとに独自の分類法を作り、1890年代の初めには警察の記録に指紋を取り入れていた。1892年、ネコチェアという町で二人の幼い子どもが殺され、母親のフランシスカ・ロハスは隣人の男を犯人だと訴えた。捜査官は戸口に残った血の指の跡を切り取って調べ、それが母親自身のものだと突き止めた。彼女は罪を認めた。指紋によって解決された最初の殺人事件として知られている。
その後、指紋は世界の警察に広がった。1903年にはニューヨーク州の刑務所が採用し、日本でも1908年に監獄で、続いて警察で使われるようになった。1905年のロンドンでは、塗料店の夫婦が殺された事件で、金庫に残った親指の跡が決め手になってストラットン兄弟が有罪となった。殺人事件で指紋が主な証拠となったイギリス最初の裁判である。アメリカでは1924年に連邦捜査局が全国の指紋の記録を集めて管理し始め、1970年代以降は計算機が自動で照合するようになった。いまでは多くの人が、毎日指先で携帯電話の鍵を開けている。
20世紀を通じて、指紋は間違えることの無い証拠だと信じられてきた。その信頼を揺るがしたのが、2004年のマドリードの列車爆破事件である。アメリカの連邦捜査局は、現場近くで見つかった袋の指紋を、オレゴン州の弁護士ブランドン・メイフィールドのものと断定し、彼を拘束した。だが彼は事件と何の関係も無かった。
スペインの警察が、指紋が別のアルジェリア人のものであることを示し、連邦捜査局は謝罪して賠償金を払った。以後、指紋の鑑定でも、どこまで似ていれば一致とするかの基準があいまいで、鑑定する人の判断に左右されることが、法廷で繰り返し問題にされている。2009年にはアメリカ学術研究会議の報告書が、指紋を含む多くの鑑識の手法について、誤りの起きる割合が科学的に確かめられていないと指摘した。
フォールズは1886年に日本を離れ、イギリスで開業医として暮らした。指紋の専門家として警察に迎えられることを望み続けたが、その願いはかなわず、1930年、ほとんど忘れられたまま世を去った。いま東京の築地には、彼がこの地で指紋の研究を始めたことを記す碑が立っている。