人物

ガンディー

Mahatma Gandhi
AD1869年10月2日 – AD1948年1月30日(享年78)
インド重要度 5

概要

非暴力・不服従で帝国に抗った。独立の翌年、宗教対立のなかで暗殺される。

関わったできごと(4)

塩の行進1930年 · 当人「インドを立ち去れ」運動AD1942年8月8日 · 決議を率いるインドの独立AD1947年8月15日 · 運動を率いたガンディーの暗殺AD1948年1月30日 · 殺された

本文

1869年10月2日、インド西部グジャラートの港町ポールバンダルに生まれた。名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。家は商人のカーストに属し、父は小さな藩王国の宰相を務めていた。母は信仰の篤い人で、しばしば断食をした。ジャイナ教の影響も強いこの土地で、生き物を傷つけないという考えに幼い頃から触れていた。

マハトマ・ガンディーの肖像(1931年)
マハトマ・ガンディーの肖像(1931年)Wikimedia Commons Elliott & Fry · Public domain

13歳で同い年のカストゥルバと結婚した。のちに自伝で、子どもどうしの結婚の慣習を強く批判している。1888年、反対する親族を押し切ってロンドンへ渡り、法律を学んだ。母との約束で肉と酒を断ち、菜食主義者の集まりに通った。1891年、法廷弁護士の資格を取って帰国する。

インドでは弁護士として成功しなかった。最初の法廷では緊張で一言も話せなかったと自伝に書いている。1893年、南アフリカのインド人商会から訴訟の手伝いを頼まれ、1年の約束で渡った。そこで、一等車の切符を持っていたのに、白人の乗客の苦情で列車から降ろされた。冬の夜の駅で震えながら、ここに留まって差別と戦うかどうかを考えたと書いている。

ネルーと語るガンディー(1942年)
ネルーと語るガンディー(1942年)Wikimedia Commons Max Desfor · Public domain

結局、南アフリカで20年余りを過ごした。インド人の権利を求める運動を組織し、1906年、トランスヴァールでインド人に指紋つきの登録を義務づける法律が作られると、それに従わない運動を始めた。暴力を使わず、法を破って罰を受け入れることで不正を訴えるこの方法を、彼は「真理を堅持すること」を意味するサティヤーグラハと名付けた。非暴力の方法は、インドではなく南アフリカで作られている。ロシアの作家トルストイとも手紙をやりとりし、共同生活の農場を営んだ。

1915年にインドへ戻ると、農民や労働者の争議に加わって名を知られていった。1919年、イギリスが令状なしの逮捕を認める法を作ると、全国で抗議を呼びかけた。その最中、アムリトサルで集会中の群衆にイギリス軍が発砲し、数百人以上が殺される(アムリトサル虐殺)。翌年、彼はインド国民会議の創立を率いて、イギリスの役所や学校、裁判所、製品をボイコットする非協力運動を始めた。運動の中で群衆が警察署を焼き打ちし警官が殺される事件が起きると、非暴力が守られていないとして運動を止めた。その後逮捕され、6年の刑を受けている。

インド初代首相となったジャワハルラール・ネルー(左)とガンディー
インド初代首相となったジャワハルラール・ネルー(左)とガンディーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

手で糸を紡ぐ糸車は、運動の象徴になった。イギリスの機械織りの布を買わず、自分たちで紡いだ布を着ることが、経済の自立と抵抗を同時に意味した。彼自身も腰布一枚の姿で過ごすようになる。

1930年の塩の行進は、植民地政府の専売品だった塩を、海水から自分で作るという、違法だが誰にでもできる行為を選んだ。3月12日、78人の同志とともに道場を出発し、24日間かけておよそ385キロを歩いて海辺の村ダンディーに着き、浜の塩をすくい上げた。各地で同じ行動が広がり、6万人以上が逮捕された。暴力に訴えないまま法を破ることで、取り締まる側を見苦しくさせる設計になっている。世界の新聞が、無抵抗の人々を警棒で打ち倒す警官の姿を報じた。

塩の行進に関わる図版:Marche sel
塩の行進Wikimedia Commons Yann ( talk ) · Public domain

不可触民の地位の改善にも力を注ぎ、彼らを「神の子(ハリジャン)」と呼んだ。だが、カースト制度そのものの廃止には踏み込まなかった。1932年、イギリスが不可触民に分離選挙を認めると、ヒンドゥー社会を分断するとして獄中で断食を始め、アンベードカルに妥協を迫った。アンベードカルとはそこで対立している。

第二次世界大戦中の1942年、イギリスに即時の撤退を求める「インドから出て行け」運動を始め、ただちに逮捕された。妻カストゥルバは、彼とともに拘禁されていた間に亡くなっている。

独立は達成された。だが分離は止められなかった。ムスリムの国を求めるムハンマド・アリー・ジンナーらのムスリム連盟と会議派の溝は埋まらず、1947年8月、インドとパキスタンは別々に独立した(インド・パキスタン分離)。新しい国境を越えて1000万人を超える人々が移動し、その途中や各地の暴動で数十万人から百万人以上が殺されたと推計されている。独立の日、彼は祝賀の式典に出ず、暴動の続くカルカッタで断食をして、争いをやめるよう訴えていた。

インド・パキスタン分離に関わる図版:Brit IndianEmpireReligions3
インド・パキスタン分離Wikimedia Commons John George Bartholomew · Public domain

1948年1月30日、デリーの夕方の祈りの集会に向かう途中、ヒンドゥー至上主義者のナトゥラーム・ゴードセに至近距離から撃たれた(ガンディーの暗殺)。78歳だった。ムスリムに譲歩しすぎた、パキスタンに甘い、というのが動機だった。最期に神の名を呼んだと伝えられる。

首相のジャワハルラール・ネルーは、ラジオで「私たちの生活から光が消えた」と国民に告げた。人々は彼を「マハトマ(偉大な魂)」と呼んだ。ノーベル平和賞の候補に何度も挙がったが、受賞していない。

糸車を廻すガンディー。但し本葉はライフ誌の表紙を飾った有名な写真ではない
糸車を廻すガンディー。但し本葉はライフ誌の表紙を飾った有名な写真ではないWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼の方法は、アメリカの公民権運動を率いたキング牧師や、南アフリカでアパルトヘイトと戦ったネルソン・マンデラらに受け継がれた。一方で、近代の工業や都市を否定し、村の自給を理想とした考えは、独立後のインドの政策にはほとんど採られなかった。カーストや女性についての見方、晩年の禁欲の試みには、いまも批判がある。誕生日の10月2日は、国連が定めた国際非暴力デーになっている。

動画(2)

【世界史⑧/10】イギリスの裏切りの果てでガンディーが愛を叫ぶ【2019年版】中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY2019年版世界史の第8回。インドの独立をガンディーを中心に語る
インド独立の父・ガンディー ― 偉大なる聖者の行進【COTEN RADIO #56】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO南アフリカでの経験が非暴力の方法をどう作ったかを扱っている
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