ナポレオンのエジプト遠征
概要
軍と一緒に160人あまりの学者が上陸した。軍事的には失敗したが、測り、写し、分類した成果は『エジプト誌』全24巻になる。東洋を研究することと支配することが、ここで結びついた。
場所
30.04°N 31.24°E · エジプト
関わった人(1)
ナポレオン・ボナパルトAD1769年8月15日–AD1821年5月5日 · 率いた本文
1798年、フランスの総裁政府は若い将軍ナポレオン・ボナパルトをどう扱うかに困っていた。イタリア遠征で名を上げた彼は人気がありすぎ、パリに置いておくのは危うい。イギリス本土への上陸は海軍の力が足りず無理だった。そこで持ち上がったのが、エジプトを取ってイギリスとインドを結ぶ道を脅かす、という計画だった。エジプトは名目上オスマン帝国の領土で、実際にはマムルークと呼ばれる軍人の有力者たちが治めていた。
1798年5月、地中海沿岸のトゥーロンなどの港から、軍艦と輸送船を合わせて数百隻の船団が出た。兵はおよそ3万5000人。それとは別に、数学者、天文学者、化学者、技師、博物学者、東洋学者、画家など、160人あまりの学者と技術者が乗っていた。数学者モンジュ、化学者ベルトレ、のちに熱の理論で知られるフーリエ、博物学者ジョフロワ・サンティレール、画家ドゥノンらがいた。行き先は出発の時点で、ほとんどの者に知らされていなかった。

船団は途中でマルタ島を占領し、7月1日にアレクサンドリアに上陸した。ナポレオンはアラビア語の布告で、自分はマムルークの圧政から人びとを解放しに来たのであり、イスラームを敬っていると宣言した。7月21日、カイロ近くのナイル西岸で、騎兵を中心とするマムルーク軍を、方陣を組んだ歩兵の銃火で打ち破った。遠くにギザのギザの大ピラミッド建設が見えたことから、ピラミッドの戦いと呼ばれる。ナポレオンが兵に、ピラミッドの上から40世紀が諸君を見下ろしている、と語ったという話は有名だが、その場の記録では確かめにくく、のちの回想を通じて広まったものとされる。
だがその10日あまり後の8月1日、アレクサンドリアの東のアブキール湾に停泊していたフランス艦隊を、ネルソンの率いるイギリス艦隊が襲った。夜を徹した戦いで、旗艦が爆発し、艦隊はほぼ全滅した。軍はエジプトに閉じ込められ、本国との連絡も補給も絶たれた。10月にはカイロで住民が蜂起し、フランス軍は大砲でモスクを砲撃して鎮圧した。

翌1799年、ナポレオンはオスマン帝国の反撃に先手を打とうと、シリアへ兵を進めた。ヤッファを落としたが、降伏した捕虜数千人を殺し、軍の中にはペストが広がった。地中海岸のアッコの包囲は、オスマンの守備隊とイギリスの艦隊に阻まれて失敗する。エジプトに戻ってアブキールに上陸したオスマン軍を撃破したあと、8月、ナポレオンはわずかな側近だけを連れて密かに船に乗り、フランスへ帰った。軍は後任のクレベールに押しつけられた形になった。11月、ナポレオンはパリでクーデターを起こし、権力を握る。
残された軍は孤立したまま戦い続けた。クレベールは1800年にカイロで暗殺され、1801年、上陸したイギリス軍とオスマン軍の前に、フランス軍はカイロとアレクサンドリアで相次いで降伏した。軍事的には失敗だった。

学者たちは、その間も測り続けていた。1798年8月、ナポレオンはカイロにエジプト学士院を作らせ、学者たちはそこで報告を交わした。ナイル川の水位と土地の高さを測り、上エジプトまで軍に同行して神殿や墓を実測し、壁の絵と碑文を写した。動植物や鉱物を集めて分類し、町の職人の技術や住民の衣服、楽器まで記録した。紅海と地中海を結ぶ古代の運河の跡も調べたが、両方の海の高さを測り違え、運河は難しいという結論を出している。この誤りが正されてスエズ運河の開通が掘られるのは、半世紀あまり後のことになる。
成果は、帰国後に『エジプト誌』としてまとめられた。古代、近代、博物誌の三部に分かれ、巨大な図版の巻を含む20巻を超える大著で、1809年から20年ほどかけて刊行された。神殿の図版は、それまでヨーロッパの誰も見たことのない古代エジプトの姿を伝え、建築や家具の流行にまでエジプト風を広めた。1799年には、ナイル河口のロゼッタで要塞を補強していた兵が、三つの文字で刻まれた石を見つけている。降伏の取り決めで石はイギリスに渡ったが、写しはフランスの学者の手元に残り、のちのロゼッタ・ストーンの解読につながった。

エジプトの側から見れば、遠征は外国の軍による占領だった。カイロの歴史家ジャバルティは、フランス人の振る舞いを冷ややかに書き留めている。一方で、彼は学士院を訪れ、実験や書物に驚いたことも記した。フランス軍が去ったあとの混乱の中から、オスマン帝国のアルバニア人部隊の将校だったムハンマド・アリーが頭角を現し、1805年にエジプトの総督になる。彼はヨーロッパ式の軍隊と工場を作り、エジプトの近代化を始めた。遠征は、中東がヨーロッパの軍事と技術の力に直に向き合った最初の出来事の一つとされる。
エドワード・サイードの物語「『オリエンタリズム』で読む歴史」は、この遠征を近代のオリエンタリズムの出発点に置いた。軍が支配のために土地を取り、学者がその土地を測り、記述し、分類する。知ることと取ることが、同じ一つの事業として行われた。エジプトは、自分で自分を語る相手ではなく、ヨーロッパが調べて説明する対象になった。その見方が、後のヨーロッパによる中東の研究と支配の型になった、というのがサイードの議論である。