人物

呉権

Ngô Quyền
AD897年 – AD944年(享年47・推定)
ベトナム重要度 3

概要

白藤江で南漢を破り、1000年におよぶ中国の支配を終わらせた。ベトナム独立の起点とされる。

関わったできごと(1)

白藤江の戦いAD938年 · ベトナム側 · 総指揮

本文

897年、紅河デルタの西のはずれ、唐林(いまのハノイ市ソンタイ)に生まれた。土地の有力者の家だったとされる。ベトナム北部は、紀元前2世紀に漢に征服されて以来、途中に徴姉妹の蜂起のような反乱をはさみながら、中国の王朝の郡県として治められてきた。

バクダン江で南漢軍を破る呉権の木版画(938年)
バクダン江で南漢軍を破る呉権の木版画(938年)Wikimedia Commons Unknown artisan from the village of Dong Ho. · Public domain

紀元前111年、漢の武帝は南越国を滅ぼし、紅河デルタに郡を置いた。それから唐の時代まで、この地は交州、のちに安南都護府と呼ばれる中国の南の辺境だった。「安南」という呼び名は、ここから来ている。北から来た官僚と移住者が土地の豪族と交わり、漢字と儒学と仏教が根を下ろした。それでも、土地の言葉と、自分たちは北の人々とは違うという意識は消えなかった。

10世紀の初め、唐が衰えると、この地の支配もゆるんだ。905年、土地の豪族の曲承裕が節度使の座に就き、名目は唐の臣下のまま、実際には自分たちで治め始めた。独立の始まりをこの年に置く見方もある。唐の滅亡の後、中国は五代十国の分裂に入り、広州を都とする南漢がベトナム北部をうかがった。931年、土地の豪族・楊廷芸が南漢の軍を追い出して、この地を治めた。呉権はその部将で、楊廷芸の娘を妻に迎え、南の愛州を任されていた。

937年、楊廷芸は部下の矯公羨に殺された。呉権は兵を挙げて仇を討とうとし、追い詰められた矯公羨は南漢に助けを求めた。南漢の皇帝・劉龑は、息子の劉弘操を総大将に艦隊を送り出す。938年、呉権は先に矯公羨を討ち、そのうえで海から来る南漢軍を待ち受けた。

戦場に選んだのは、紅河デルタの北東で海に注ぐ白藤江の河口だった(白藤江の戦い)。満潮時に見えない位置まで、先を鉄で覆った杭を川底に打ち込んだ。満ち潮の時刻に小舟で挑発して敵の艦隊を誘い込み、引き潮を待つ。水位が下がると、杭が船底を貫く。動けなくなった艦隊を、両岸と小舟から攻めた。劉弘操は戦死し、南漢の皇帝は軍を引いた。

これで、1000年近くにおよぶ中国の支配が終わる。翌939年、呉権は王を称し、古螺を都とした。古螺は伝説の時代の安陽王の都と伝えられる場所で、そこを選んだこと自体が、中国の郡県ではない国の始まりを示す意味を持っていた。皇帝ではなく王を名乗り、官制や朝廷の儀礼を整えたとされる。

ただし、王朝は長く続かなかった。944年、呉権は47歳前後で死ぬ。妻の兄の楊三哥が王位を奪い、呉権の息子たちが取り返したものの、各地の豪族は従わなかった。国は「十二使君」と呼ばれる豪族の割拠に陥る。これをまとめ直したのは968年の丁部領で、彼が初めて皇帝を名乗り、国号を大瞿越とした。

その後も、中国の王朝は何度もベトナムに攻め込んでくる。981年には宋の軍を黎桓が退け、このときも白藤江が戦場になったとされる。同じ白藤江で、350年後の1288年に、元の艦隊が同じ方法で沈められている(白藤江の戦い(元寇撃退))。陳興道が呉権の戦い方に学んだことは、ベトナムでは広く語られる。

白藤江の戦い(元寇撃退)に関わる図版:Battle of Bach Dang river
白藤江の戦い(元寇撃退)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

呉権の事績は、ほとんどが後世の史書、とくに15世紀にまとめられた『大越史記全書』によって伝わる。戦いの細部、とりわけ杭を打った場所や艦隊の規模には分からないところが多い。白藤江の流域ではこれまでに古い杭の列がいくつも見つかっているが、多くは1288年の戦いのものと考えられていて、938年の戦場の正確な位置はまだ確かめられていない。

ベトナムの歴史で、独立の起点として置かれる人物になる。のちの大越の諸王朝も、呉権の勝利をみずからの国の始まりに数えた。ハノイ郊外の唐林には彼を祀る廟があり、全国の街路や学校にその名が付いている。千年の支配の後に、自分たちの王を立てた最初の人として、いまも記憶されている。

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