ムガル帝国の成立
概要
バーブルが北インドを制した。以後300年、南アジアの中心となる。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
関わった人(1)
アクバルAD1542年–AD1605年 · 基礎を固めた本文
ムガル帝国を開いたバーブルは、インドの外から来た。1483年、中央アジアのフェルガナの小さな国の王子として生まれ、父方はティムールの5代目の子孫、母方はチンギス・カンの血を引いていた。11歳で父を失って国を継ぎ、ティムールの都だったサマルカンドを三度手に入れ、三度失った。故郷を追われたバーブルは、1504年に南のカーブルを奪い、そこを拠点にした。中央アジアで先祖の帝国を取り戻す望みを絶たれた彼が目を向けたのが、豊かな北インドだった。
その頃、北インドを治めていたのは、デリーを都とするアフガン系のローディー朝である。スルタンのイブラーヒームは家臣の豪族たちと折り合いが悪く、その一部はバーブルに援軍を求めていた。バーブルは何度かインドへの遠征を重ねた後、1526年、デリーの北西のパーニーパットで、イブラーヒームの大軍と決戦した(第一次パーニーパットの戦い)。バーブルの側は兵力ではるかに劣っていたが、オスマン帝国の戦い方にならい、荷車を鎖でつないで壁にし、その間から大砲と鉄砲を撃ちかけ、騎兵で敵の両側を回り込んだ。戦象を並べたイブラーヒームの軍は崩れ、スルタンは戦死した。バーブルはデリーとアーグラを手に入れた。

翌年には、ラージプートの諸侯を率いたメーワールの王サンガーを破り、北インドでの地位を固めた。だがバーブルはインドをあまり好まなかった。彼がテュルク語で書いた回想録には、インドには良い馬も、良い果物も、冷たい水もない、と不満が並び、故郷の瓜を懐かしむ言葉が残る。回想録は、戦いの記録だけでなく、自然や人々を細かく観察した文学作品として、いまも読まれている。バーブルは1530年、アーグラで没した。
帝国はまだ脆かった。息子のフマーユーンは、アフガン系の武将シェール・シャーに敗れて国を追われ、15年近くペルシアのサファヴィー朝のもとに身を寄せた。シェール・シャーは短い治世の間に、道路や貨幣、土地の測量による税の制度を整え、後のムガルの統治の土台を作った。フマーユーンは1555年にデリーを取り戻したが、翌年、書庫の階段から落ちて死んだ。

13歳で帝位を継いだのが、孫のアクバルである。アクバルは即位の年に、再びパーニーパットでヒンドゥーの武将ヘームーの軍を破って危機を乗り越え、その後の半世紀で、北インドからアフガニスタン、ベンガル、デカンの北部までを支配下に入れた。
アクバルの時代に、帝国の統治の形が定まった。インドの人口の大半はヒンドゥー教徒で、イスラム教徒の支配層は少数にすぎない。アクバルはヒンドゥー教徒の巡礼にかかる税を廃し、異教徒に課していた人頭税も廃止した。武勇で知られるラージプートの王家の娘を妃に迎え、その一族を帝国の高官や将軍に取り立てた。役人や将軍には、位階に応じて兵を養う義務と、税を取る土地の権利を与え、土地は測量して税を定めた。信仰の面でも、宮廷にイスラム教の学者、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、ゾロアスター教徒、イエズス会の宣教師を招いて議論させ、自ら諸宗教を融合させた独自の教えを唱えたことでも知られる。

宮廷の言葉はペルシア語で、インドの古典や叙事詩もペルシア語に訳された。細密画では、ペルシアの技法とインドの色彩が溶け合った。軍の陣営や市場で、インドの言葉にペルシア語やアラビア語の語彙が混ざって生まれた言葉は、のちにウルドゥー語として育っていく。ムガルという呼び名は、ペルシア語でモンゴルを指す言葉から来ているが、皇帝たち自身はティムールの子孫であることを誇りにしていた。
アクバルの後、ジャハーンギール、シャー・ジャハーンと続く時代に、帝国は繁栄の頂点を迎えた。シャー・ジャハーンが亡き妃のために建てたタージ・マハルの完成は、その象徴である。17世紀のムガル帝国は、人口1億を超えるとも言われ、世界でも有数の豊かな国だった。
6代アウラングゼーブは、帝国の版図を南インドの奥深くまで広げたが、アクバルが廃した人頭税を復活させるなど、厳格なイスラムの統治に傾いた(アウラングゼーブの治世)。デカンでの長い戦いで財政は疲れ、ラージプートやマラーター、シク教徒の反発を招いた。1707年に彼が死ぬと、地方の総督たちは半ば独立し、帝国はばらばらになっていく。1739年にはペルシアのナーディル・シャーのデリー略奪で都が略奪され、18世紀の半ば以降、イギリス東インド会社が力を伸ばした(プラッシーの戦い)。

最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は、インド大反乱で反乱軍に担がれ、鎮圧後にビルマへ流された。1858年、ムガル帝国は名実ともに終わった。バーブルがパーニーパットで勝ってから、330年余りが過ぎていた。帝国が残したペルシアとインドの混ざり合った文化は、建築にも、料理にも、言葉にも、南アジアの各地にいまも生きている。