できごと

コンバウン朝の成立

Konbaung dynasty
AD1752年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1752年の版図を描いています(25勢力)。

概要

アラウンパヤーがビルマを再統一し、アユタヤを落とすまでになった。三度の戦争でイギリスに敗れ、1885年に王は牛車で宮殿を出され、インドへ送られる。

場所

シュエボー
22.57°N 95.70°E · ミャンマー・ザガイン地方域

本文

18世紀の半ば、ビルマ(いまのミャンマー)の王朝は弱りきっていた。16世紀に国をまとめたタウングー朝は、上ビルマのアヴァに都を置いていたが、周辺の人びとの反乱と侵入に苦しんでいた。南のペグー(バゴー)では、かつてビルマに従えられていたモン人が王国を立て直し、北へ攻め上る。1752年、モン人の軍がアヴァを落とし、王族を連れ去った。タウングー朝はここで終わる。

そのころ、アヴァの北西のモークソーボという村に、アウンゼーヤという村長がいた。モン人の軍が忠誠の誓いを求めてくると、彼はそれを拒み、村の周りに柵をめぐらせて立てこもった。近くの村々から人が集まり、モン人の部隊を打ち破る。アウンゼーヤは王を名のってアラウンパヤー(未来の仏陀)と称し、村を王都シュエボーに改めた。これがコンバウン朝の始まりである。

ミャンマー・バガンの仏教寺院群
ミャンマー・バガンの仏教寺院群Wikimedia Commons Vyacheslav Argenberg · CC BY 4.0

アラウンパヤーの勢いは速かった。1753年末にはアヴァを取り戻し、南へ下ってモン人の拠点を一つずつ落とした。1755年、河口に近いダゴンの町を占領し、戦いの終わりを意味するヤンゴン(敵が尽きる)と名づけた。いまのヤンゴンである。1757年には、モン人の都ペグーを長い包囲の末に落とし、町を徹底的に破壊した。わずか数年で、彼はイラワジ川流域の全体を一つにまとめた。

アラウンパヤーはさらに東のシャム(タイ)へ攻め込み、1760年にアユタヤ朝の成立以来の都を囲んだが、陣中で病に倒れ、退却の途中で死んだ。45歳ほどだった。その遺志を継いだ息子のシンビューシンは、1767年、再びアユタヤを囲み、1年あまりの包囲の末に攻め落とした(アユタヤの陥落)。400年続いた都は焼かれ、寺院も王宮も記録も失われ、大勢の住民と職人がビルマへ連れ去られた。しかしシャムではまもなくタークシンが兵を挙げてビルマ軍を追い出し、新しい王朝を開いていく。

アユタヤの陥落に関わる図版:Burmese-Siamese war (1765-1767) map - EN - 001
アユタヤの陥落Wikimedia Commons Aristitleism · CC0

ビルマがシャムを完全に押さえきれなかった理由の一つは、北から清が攻めてきたことだった。国境の小領主たちの帰属をめぐって争いが起き、乾隆帝の治世の清は1765年から1769年にかけて四度にわたり軍を送り込んだ。ビルマはそのすべてを退け、和議を結ぶ。当時の清の対外戦争の中でも、最も苦い失敗の一つとされる。

その後のコンバウン朝は、西へ広がっていった。ボードーパヤー王は1785年にアラカンを併合し、19世紀の初めにはマニプルとアッサムにまで兵を出した。そこで、ベンガルを押さえていたイギリス東インド会社とぶつかる。1824年に始まる第一次英緬戦争で、ビルマはアラカンとテナセリムを奪われ、アッサムとマニプルから手を引いた。1852年の第二次英緬戦争では、ヤンゴンを含む下ビルマ全体を失う。

19世紀の水彩画。コンバウン朝の灌頂式を描く。王と王妃はパビリオンに座し、周囲をバラモンの一団が囲む
19世紀の水彩画。コンバウン朝の灌頂式を描く。王と王妃はパビリオンに座し、周囲をバラモンの一団が囲むWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

海への出口をなくした王国は、内陸で生き残りを図った。ミンドン王は1857年に新しい都マンダレーを築き、近代化と外交で国を保とうとした。ミンドン王は熱心な仏教徒でもあった。1871年には、上座部仏教の経典を校訂し直すための結集をマンダレーで開き、確定した経典の全文を729枚の大理石の板に刻ませた。板は一枚ずつ小さな堂に納められ、クトードー・パゴダの境内にいまも並んでいる。「世界最大の本」と呼ばれる。

しかしその子のティーボー王の代、1885年の第三次英緬戦争でイギリス軍は2週間ほどでマンダレーに入った(ビルマの併合)。11月末、ティーボー王と王妃スパヤーラッは牛車に乗せられて宮殿を出て、イラワジ川の蒸気船でインドへ送られた。王はインド西海岸のラトナギリで、1916年に死んでいる。

望楼から見たマンダレーの王宮
望楼から見たマンダレーの王宮Wikimedia Commons Hybernator · Public domain

ビルマはイギリス領インドの一つの州に組み込まれ、王宮は兵営になった。コンバウン朝は133年で終わった。ビルマが独立を取り戻すのは、1948年のビルマの独立である。村長の柵から始まった王朝は、東南アジアで最大級の軍事国家を作り上げたあと、もっと大きな帝国の前に、端から順に削られていった。

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