人物

ヤドヴィガ

Jadwiga of Poland
AD1373年 – AD1399年7月17日(享年26・推定)
ポーランド王国重要度 3

概要

10歳で「王」として戴冠した。女王ではなく王の称号で。婚約者を捨てて、国のために異教の大公と結婚する。クラクフ大学を再建し、25歳で産褥で死んだ。聖人になっている。

所属

ポーランド王国

関わったできごと(1)

クレヴォの合同AD1385年8月14日 · 女王

本文

ヤドヴィガは1373年から74年にかけてのころ、ハンガリーの都ブダに生まれた。父はハンガリー王ラヨシュ1世で、1370年からはポーランドの王も兼ねていた。母はボスニアの出のエルジェーベト。男子のいない父は、3人の娘に王国を継がせようと手を尽くした(ハンガリー王国)。ヤドヴィガは4歳で、オーストリアのハプスブルク家のヴィルヘルムと婚約させられ、子ども同士の形ばかりの婚礼の儀まで行われた。ウィーンの宮廷でしばらく育てられたともいう。

ヤドヴィガの肖像、バッチャレッリ画
ヤドヴィガの肖像、バッチャレッリ画Wikimedia Commons Marcello Bacciarelli · Public domain

1382年、父が死んだ。ハンガリーは姉のマリアが継いだ。ポーランドの貴族たちは、マリアとその夫ジギスムントを王に迎えることを拒み、ハンガリーと切り離された自分たちだけの君主を求めた。2年の交渉と内乱の末、母は末娘のヤドヴィガをポーランドへ送り出した。1384年10月、クラクフのヴァヴェル大聖堂で、10歳のヤドヴィガは戴冠した。称号は女王ではなく「ポーランドの王」(レックス)だった。王の妃ではなく、自分の権利で国を治める君主であることを示すため、と説明されることが多い。

戴冠した少女の結婚相手を決めたのは、貴族たちだった。選ばれたのは、東の隣国リトアニア大公国の大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)である。リトアニアはヨーロッパで最後まで残った異教の大国で、北のドイツ騎士団から「異教徒討伐」の名目で攻め続けられていた。1385年のクレヴォの合同で、ヨガイラはカトリックの洗礼を受け、リトアニアの民を改宗させ、ポーランドと結びつくことを約束した。ヨガイラの年齢は20代とも30代ともいわれ、ヤドヴィガは11歳だった。

クレヴォの合同に関わる図版:Union of Krewo
クレヴォの合同Wikimedia Commons en:Jogaila · Public domain

そこへ婚約者のヴィルヘルムがクラクフに乗り込んできた。二人がひそかに会っていたこと、ヴィルヘルムが城から締め出されると、ヤドヴィガが斧を手に城門を打ち破ろうとして側近に止められたことが、のちの年代記に書かれている。どこまで本当かは分からない。いずれにせよ、彼女は貴族の求めに従った。1386年2月、ヨガイラはクラクフで洗礼を受けてヴワディスワフと名を改め、3日後に二人は結婚した。翌年、リトアニアの人々の集団の洗礼が始まる。

ヤドヴィガはお飾りの王ではなかった。1387年には自ら軍を率いて南東のルテニア(いまのウクライナ西部)へ進み、ハンガリーが押さえていた土地の多くをポーランドに取り戻した。夫とその従兄弟ヴィタウタスが争ったときには、仲を取り持った。北のドイツ騎士団とは、戦いを避けて交渉で臨み、自ら騎士団長と会っている。騎士団とのいずれ来る大戦を予言した、という話も伝わるが、これは後世の伝説である。その戦いは彼女の死後、グルンヴァルトの戦いとして起きた。

グルンヴァルトの戦いに関わる図版:Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem
グルンヴァルトの戦いWikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

人柄を伝える話も多い。祈りと慈善に熱心で、病院を建て、貧しい者に施した。聖書の詩篇をポーランド語に訳させたともいわれる。プラハの大学には、リトアニアの学生を受け入れる学寮を設けた。新しく改宗した国の若者に、学問の道を開こうとしたのである。

いちばん大きな仕事は、クラクフの大学だった。1364年に先々代の王カジミェシュ3世が作ったこの大学は、創立者の死後、ほとんど動いていなかった。ヤドヴィガは教皇に働きかけ、1397年に神学部を置く許しを得た。大学を立て直すため、死に臨んで自分の宝石や装身具を大学に遺した。1400年、大学は改めて開かれる。のちにヤギェウォ大学と呼ばれるようになったのは、夫ヨガイラの王朝の名にちなんだもので、19世紀からの呼び名である。コペルニクスもここで学んだ。

「ヤドヴィガの誓い」かつての許嫁との不義の疑いのかかった女王が、夫の面前で聖書に手をおき貞節を誓う場面、ユゼフ・シムレル画
「ヤドヴィガの誓い」かつての許嫁との不義の疑いのかかった女王が、夫の面前で聖書に手をおき貞節を誓う場面、ユゼフ・シムレル画Wikimedia Commons Józef Simmler · Public domain

1399年6月、結婚から13年目に、初めての子となる娘を産んだ。娘は3週間ほどで死に、7月17日、ヤドヴィガもあとを追うように死んだ。25歳だった。ヴァヴェル大聖堂に葬られた。夫はその後も35年あまり王位にあり、ヤギェウォ朝はポーランドとリトアニアを結んで2世紀近く続いた。のちのポーランド・リトアニア共和国への道は、この結婚から始まっている。

ポーランドでは早くから聖女として慕われたが、正式に聖人とされたのは、1997年、ポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世がクラクフを訪れたときだった。

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