人物

パトリス・ルムンバ

Patrice Lumumba
AD1925年7月2日 – AD1961年1月17日(享年35)
コンゴ重要度 4

概要

コンゴ独立の初代首相。首相を2か月余りで解任され、外国の関与のもとで殺された。独立の難しさの象徴になる。

関わったできごと(1)

ルムンバの殺害AD1961年1月17日 · 当人

本文

パトリス・ルムンバは1925年7月2日、ベルギー領コンゴの中部、カサイ地方の村で生まれた。家はテテラ人の農民だった。キリスト教の宣教団の学校で学んだが、高等教育は受けていない。コンゴは、ベルギー国王レオポルド2世の私有地として住民に苛酷な労働を強いた時代(コンゴ自由国)を経て、ベルギー政府の植民地になっていた。現地の人々の教育は初等教育にとどめられ、独立の時点で大学を出たコンゴ人は、ごくわずかしかいなかった。

パトリス・ルムンバ(1960年)
パトリス・ルムンバ(1960年)Wikimedia Commons Harry Pot for Anefo ) · CC BY 4.0

ルムンバは独学で本を読みあさり、東部の町スタンレーヴィル(いまのキサンガニ)で郵便局の事務員になった。西洋の教育を受けた現地人のエリートとして、文章を書き、団体を作って頭角を現した。1956年には郵便局の金を横領した罪で1年ほど服役している。出所後は首都レオポルドヴィル(いまのキンシャサ)でビール会社の営業担当になり、その弁舌で人を引きつけた。

1958年、ルムンバはコンゴ国民運動を結成した。コンゴの政党の多くが特定の民族や地方を地盤にしていたのに対し、この党は民族を超えた統一国家を目標に掲げた。同じ年、ガーナの首都アクラで開かれた全アフリカ人民会議に出席し、クワメ・エンクルマらアフリカ独立運動の指導者たちと交わった。1959年、スタンレーヴィルでの暴動の責任を問われて投獄されたが、独立の段取りを話し合うブリュッセルの会議に、彼の参加が欠かせないとして釈放された。

ルムンバ(1958年)
ルムンバ(1958年)Wikimedia Commons unknown, Présence Congolaise · Public domain

ベルギーは急に方針を変え、わずか半年後の独立を認めた。1960年5月の選挙で、ルムンバの党は第一党になった。6月30日、コンゴは独立し、34歳のルムンバが首相に、カサヴブが大統領に就いた。独立式典で、ベルギー国王ボードゥアンは、レオポルド2世の偉業をたたえ、ベルギーの文明化の使命を誇る挨拶をした。予定に無かったルムンバの演説は、それに真っ向から応えるものだった。彼は、独立はベルギーから贈られたものではなく、闘い取ったものだと述べ、植民地支配のもとで、黒人だという理由で朝も昼も晩も受けてきた嘲りと侮辱と殴打を並べ立てた。コンゴ人は喝采し、ベルギー人と西側の外交官たちは凍りついた。

独立の数日後、軍の兵士たちがベルギー人の将校に反乱を起こした。ベルギーは自国民の保護を名目に軍を送り込み、7月11日には、銅やコバルトなどの鉱山が集まる南部のカタンガ州が、ベルギーの鉱山会社と軍の後押しを受けて分離独立を宣言した(コンゴ動乱)。続いて南カサイも分離した。ルムンバは国連に助けを求め、国連は平和維持軍を送ったが、国連事務総長ハマーショルドは、分離を力で終わらせることは内政への介入になるとして、カタンガへの攻撃を拒んだ。

コンゴ動乱に関わる図版:UN Baluba camp
コンゴ動乱Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

業を煮やしたルムンバは、ソ連に輸送機やトラックの援助を求め、南カサイへ軍を送った。その過程で、多くの住民が殺された。冷戦のさなか、アメリカはこれを見て、コンゴがソ連の側に転ぶことを恐れた。アメリカの中央情報局は、ルムンバを毒殺する計画まで立てていたことが、のちの議会の調査で明らかになっている(計画は実行されなかった)。

9月5日、大統領のカサヴブはルムンバを首相から解任すると宣言し、ルムンバも大統領の解任を宣言し返した。9日後、陸軍の参謀長モブツがクーデタで権力を握った。首相を務めたのは、わずか2か月余りだった。ルムンバは国連軍が警護する首都の公邸で、モブツの軍に囲まれて軟禁された。11月末、彼は公邸を抜け出し、支持者の多い東部へ向かったが、途中で捕らえられ、殴打されて連れ戻された。

円卓会議でのコンゴ国民運動代表団とともにブリュッセルにいるルムンバ(1960年1月26日)
円卓会議でのコンゴ国民運動代表団とともにブリュッセルにいるルムンバ(1960年1月26日)Wikimedia Commons Harry Pot for Anefo · CC0

1961年1月17日、ルムンバは2人の同志とともに、敵対するカタンガの州都エリザベートヴィル(いまのルブンバシ)へ空輸された。機内でも暴行を受けた。その夜、カタンガの指導者たちとベルギー人の将校や警察官が立ち会う中、3人は銃殺された(ルムンバの殺害)。35歳だった。死は数週間にわたって隠され、明らかになると世界各地で抗議が起きた。遺体は、証拠を消すために掘り返されて切り刻まれ、硫酸で溶かされた。それを行ったベルギー人の警察官は、歯を1本持ち帰っていた。

ルムンバの死の後、コンゴは数年にわたる内戦と反乱に沈み、1965年にモブツが再びクーデタを起こして、30年以上にわたる独裁を敷いた(モブツの独裁)。2001年、ベルギーの議会の調査委員会は、ベルギー政府に殺害の道義的責任があると認め、政府は翌年謝罪した。2022年6月、ベルギーは警察官の遺族から押収していた歯を、ルムンバの家族に返還した。歯は首都キンシャサの霊廟に納められた。

新政府とともに国民宮殿前に立つルムンバ(左中央)、就任式直後
新政府とともに国民宮殿前に立つルムンバ(左中央)、就任式直後Wikimedia Commons E. Zute, Inforcongo · Public domain

首相の在任は短く、その政治的な判断が性急だったという評価もある。それでも、大国の思惑の中で殺された若い指導者として、ルムンバはアフリカの独立の希望と、その挫折を象徴する人物になった。

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