人物

ダライ・ラマ14世

14th Dalai Lama
AD1935年7月6日 – ?
チベット(亡命政府)重要度 4

概要

2歳で認定され、24歳でインドへ亡命した。60年以上、国を持たないまま国を代表している。

関わったできごと(1)

チベット動乱AD1959年3月10日 · 亡命

本文

1935年7月6日、チベット高原の北東部アムド地方、いまの中国青海省にあるタクツェルという小さな村で、農家の子として生まれた。幼名をラモ・トンドゥプという。16人きょうだいで、育ったのはそのうち7人だった。

幼年時代のダライ・ラマ14世
幼年時代のダライ・ラマ14世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

チベットでは、ダライ・ラマは観音菩薩の化身であり、亡くなると別の子どもに生まれ変わると信じられてきた。1933年にダライ・ラマ13世が亡くなると、摂政は聖なる湖のほとりで瞑想し、水面に三つの文字と、緑と金の屋根の寺、青緑色の瓦の家が見えた、と伝えられる。各地に捜索の一行が送られ、その一つがタクツェルの家にたどり着いた。一行は身分を隠して訪れたが、2歳の男の子は僧の首にかかった数珠を指して、それは自分のものだと言ったという。後日、13世の遺品と、それによく似た品を並べて見せると、男の子は迷わず遺品のほうを選んだとされる。

当時アムドを支配していたのは中国の地方軍閥で、子どもをラサへ送り出すのと引き換えに多額の金を要求した。一家がラサに着いたのは1939年、即位は1940年、4歳のときである。テンジン・ギャツォの名を受け、ポタラ宮で僧としての教育が始まった。政治は摂政が担った。少年はさびしい日々の中で、望遠鏡で町の人々を眺め、宮殿にあった古い自動車や時計、映写機を分解しては組み立てて遊んだ。のちに、チベットに来ていたオーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーから、地理や西洋のことを学んでいる。

1949年に中華人民共和国が成立すると(中華人民共和国の成立)、翌1950年、人民解放軍がチベット東部に攻め込んだ。チベット軍はたちまち敗れた。危機の中で、15歳のダライ・ラマが政治の全権を引き受けることになった。1951年、北京に送られたチベットの代表団は、チベットが中国の一部であることを認める「十七か条協定」に署名させられた。その代わり、チベットの政治の仕組みと宗教はそのまま保つと約束されていた。

中華人民共和国の成立に関わる図版:Mao Proclaiming New China
中華人民共和国の成立Wikimedia Commons Orihara1 · Public domain

1954年、19歳のダライ・ラマは北京を訪れ、毛沢東と何度も会った。毛沢東の人柄に惹かれもしたが、別れ際に、宗教は毒だ、と言われたことを後に記している。その頃、協定の対象外とされたチベット東部のカムやアムドでは、土地改革と寺院への圧力に反発した人々が武器を取り、戦いは次第にラサへ近づいていた。

1959年3月10日、中国軍の司令部がダライ・ラマを観劇に招き、護衛を連れずに来るよう求めた、という噂がラサに広がった。連れ去られることを恐れた数万の人々が、夏の離宮ノルブリンカを取り囲んだ(チベット動乱)。3月17日の夜、ダライ・ラマは兵士の服に着替えて離宮を抜け出し、山を越えて南へ逃れた。2週間後、インドの国境を越える。直後のラサでの戦闘で、多くの人が死んだ。24歳だった。

チベット動乱に関わる図版:Tsarong in captivity
チベット動乱Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

インドのジャワハルラール・ネルーは亡命を受け入れた。中国との関係を気にしながらの決断だった。ダライ・ラマはヒマラヤの麓の町ダラムサラに亡命政府を置き、後を追ってきた数万のチベット人とともに暮らしを立て直した。学校を作り、経典と寺院の伝統を移し、亡命の地にチベットの社会をもう一度築こうとした。一方、本土では文化大革命の中で、多くの寺院が壊され、僧が還俗させられた。

ダライ・ラマは、チベットの完全な独立を求めることをやめた。1988年、中国の中で外交と防衛は中国に委ね、それ以外の高度な自治を求める「中道」の考えを示した。翌1989年、非暴力でチベットの解放を訴え続けたことが評価され、ノーベル平和賞を受けた。同じ年、北京では天安門事件が起きている。中国政府は彼を、国を割ろうとする者として非難し続け、話し合いは実らなかった。亡命社会の若い世代からは、中道は妥協にすぎない、独立を求めるべきだ、という批判も出ている。

UNESCOに登録されたラサのポタラ宮殿
UNESCOに登録されたラサのポタラ宮殿Wikimedia Commons Ondřej Žváček · CC BY 2.5

亡命政府の民主化も進めた。議会を作り、2001年には首相にあたる職を選挙で選ぶようにした。2011年、政治的な権限をすべて選挙で選ばれた指導者に譲り、自らは宗教の指導者の役割だけを残した。17世紀にダライ・ラマ5世がチベットの政治と宗教の両方の頂点に立って以来の、政教一致の仕組みを、自分の代で終わらせたことになる。

後継をどうするかは、チベットの将来に直結する。1995年、ダライ・ラマが転生者として認めたパンチェン・ラマの少年は、直後に中国当局に連れ去られ、行方が分からなくなった。中国は別の少年を立てた。中国政府は、次のダライ・ラマも国が認めると主張している。ダライ・ラマはかつて、転生の制度を自分の代でやめる可能性にも触れていたが、90歳の誕生日を前にした2025年、制度は続くこと、後継の認定は自分の側の組織だけが行うことを表明した。

ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領(2001年)
ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領(2001年)Wikimedia Commons Eric Draper · Public domain

国を持たないまま、60年以上にわたってチベットを代表してきた。笑顔と冗談を交えた語り口で世界中を回り、仏教だけでなく、科学者との対話や、宗教を超えた倫理を説いてきたことでも知られる。その人生は、20世紀のチベットがたどった歴史そのものである。

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