できごと

軍人皇帝時代の始まり

Beginning of the Crisis of the Third Century
AD235年
重要度 5
ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシアサーミメロエヒムヤル王国アクスム王国アルメニアハドラマウトブレンミュエスBoihaenumAD235年ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD235年の版図を描いています(11勢力)。

概要

トラキアの農民出身の巨漢マクシミヌスが、兵に担がれてセウェルス・アレクサンデルを殺した。元老院に来なかった皇帝。3年後、兵に殺された。238年は6人が皇帝。50年で26人。ほとんどが殺された。ペルシア、ゴート、疫病、インフレ。帝国が割れかけた。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

マクシミヌス・トラクスAD173年–AD238年 · 兵に担がれた

本文

235年3月、ライン川の前線、モグンティアクム(いまのマインツ)の近くの陣営で、皇帝セウェルス・アレクサンデルが自分の兵に殺された。在位13年、まだ26歳ほどだった。一緒に殺されたのは、息子の背後で政治を動かしてきた母ユリア・ママエアである。兵が新しい皇帝に担いだのは、新兵の訓練を任されていたトラキア出身の軍人、マクシミヌス・トラクスだった。

セウェルス朝は、北アフリカ出身の軍人セプティミウス・セウェルスが193年の内乱を勝ち抜いて開いた王朝である。彼は死に際に息子たちへ「兵を富ませよ、あとは気にするな」と言い残したと伝えられる。給料を上げ、兵に頼って帝位を保つ。その仕組みは、兵が皇帝を選び、気に入らなければ殺す、ということでもあった。アレクサンデルは穏やかな人柄で元老院とは仲が良かったが、兵には頼りなく見えた。東では224年のササン朝の成立で新しい王朝が起こり、その王アルダシール1世がローマの東方属州をうかがっていた。アレクサンデルは230年代の初めに東へ遠征したが、決着はつかなかった。そのまま西へ回り、ライン川を越えてくるゲルマン人に向き合ったとき、戦うより金を払って和平を結ぼうとした。それが兵を怒らせた。

ローマ帝国の最大版図(117年頃)ローマ帝国領(深緑)、係争地(緑)、一時的な征服地(黄緑)
ローマ帝国の最大版図(117年頃)ローマ帝国領(深緑)、係争地(緑)、一時的な征服地(黄緑)Wikimedia Commons Cplakidas · Public domain

マクシミヌスは、兵卒から叩き上げた男だった。後世の伝記集『ヒストリア・アウグスタ』は、身の丈2メートルを優に超え、妻の腕輪を指輪にしたと書くが、この本は創作が多いことで知られ、巨漢の描写もそのまま信じることはできない。確かなのは、彼が元老院の家柄ではなく、元老院議員になったこともない最初の皇帝の一人だったことである。即位してからの3年間、彼はドナウとラインの前線で戦い続け、一度もローマ市に入らなかった。戦費をまかなうために重い取り立てを行い、元老院と都市の有力者に憎まれた。

238年、その憎しみが北アフリカで爆発した。属州アフリカの町テュスドルスで、取り立てに苦しむ地主の若者たちが皇帝の財務役人を殺し、80歳前後の総督ゴルディアヌスを皇帝に担いだ。息子も共同皇帝になった。元老院はすぐにこの父子を認め、マクシミヌスを国家の敵と宣言した。しかしゴルディアヌス父子の天下は3週間ほどで終わる。隣の属州ヌミディアの総督カペリアヌスはマクシミヌスに忠実で、軍団を率いてカルタゴに攻め寄せた。息子は戦死し、父は首を吊った。

最初の軍人皇帝マクシミヌス・トラクス
最初の軍人皇帝マクシミヌス・トラクスWikimedia Commons Public domain

後戻りできなくなった元老院は、自分たちの中から年配の議員プピエヌスとバルビヌスの二人を皇帝に選んだ。だがローマの民衆は納得せず、ゴルディアヌスの孫を皇帝にせよと騒いだ。こうして13歳ほどの少年ゴルディアヌス3世が副帝に加えられた。その間に、マクシミヌスはイタリアへ攻め込み、北東の町アクイレイアを囲んだ。町は頑強に抵抗し、包囲軍は食糧に困った。春、陣中の兵がマクシミヌスと息子を殺し、首をローマへ送った。ところが勝ったはずの二人の皇帝も、互いに疑い合い、夏には近衛兵に宮殿で殺された。この年、皇帝を名乗った者はマクシミヌス、ゴルディアヌス父子、プピエヌス、バルビヌス、ゴルディアヌス3世の6人。残ったのは少年一人だった。

235年から、ディオクレティアヌスが即位する284年までの約50年を、軍人皇帝時代と呼ぶ。この間に元老院が認めた皇帝は26人ほどとされるが、共同皇帝や短命の僭称者をどう数えるかで数は変わる。その大半が、自分の兵か、次に皇帝になる者の兵に殺された。戦場で死んだ皇帝も出た。ゴルディアヌス3世は244年、ペルシア遠征の途中で死んだ。ペルシア側は戦いで討ち取ったと誇り、ローマ側の史料は後継のフィリップスによる謀殺をほのめかす。251年にはデキウスがドナウ川の南、アブリットゥスでゴート人と戦って死んだ。ローマ皇帝が外敵との戦いで討たれたのはこれが初めてだった。

捕虜となってシャープール1世に跪くウァレリアヌス帝(ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像)
捕虜となってシャープール1世に跪くウァレリアヌス帝(ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像)Wikimedia Commons Farzad Bakhtiar · CC BY 2.5

最悪の屈辱は260年に来た。皇帝ウァレリアヌスが、エデッサの近くでペルシア王シャープール1世に捕らえられたのである。皇帝が生きたまま敵の手に落ちたのは前例がない。ウァレリアヌスは捕虜のまま死に、シャープールはイラン南部ナクシェ・ロスタムの岩壁に、ローマ皇帝が膝をつく姿を浮彫に刻ませた。

外から攻められるなかで、帝国の内側も割れた。同じ260年、ライン方面の将軍ポストゥムスがガリア、ブリタンニア、ヒスパニアをまとめて独自の皇帝を名乗った。ガリア帝国である。東では、オアシス都市パルミラの有力者オダエナトゥスがペルシアを押し返してローマの東方を事実上預かり、彼が殺されたあと、妻のゼノビアがエジプトや小アジアにまで手を広げた(ゼノビアのパルミラ)。帝国は三つに分かれた形になった。

ガリア帝国に関わる図版:GallicEmpire262
ガリア帝国Wikimedia Commons Original - ArdadN ; edit - Wario2. · Public domain

ここに疫病と貨幣の崩れが重なった。250年ごろから十数年にわたって広がったキプリアヌスの疫病は、カルタゴの司教キプリアヌスが書き残したことからその名がある。病の正体は分かっていないが、都市によっては住民の多くを失ったと伝えられる。皇帝たちは兵に払う給料のために銀貨の銀を減らし続け、アントニニアヌスと呼ばれる銀貨は、270年ごろには銀がわずか数パーセントの、銀で薄く覆っただけの銅貨になった。人々は貨幣を信用しなくなり、物の値段は上がった。

それでも帝国は割れきらなかった。クラウディウス2世はゴート人に大勝したが、270年に疫病で死んだ。この時代の皇帝で、殺されずに病で死んだ数少ない一人である。後を継いだアウレリアヌスは5年足らずの間に、272年にパルミラを降し、274年にガリア帝国を取り戻して、帝国を一つに戻した(アウレリアヌスの帝国再統一)。ローマ市を囲む新しい城壁を築かせたのも彼である。首都に城壁が要る時代になっていた。そのアウレリアヌスも275年、側近の陰謀で殺された。

Maximus Ny Carlsberg Glyptotek IN823 (cropped)
Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

284年に即位したディオクレティアヌスは、もう元の帝国を立て直そうとはしなかった。帝国を4人の皇帝で分けて治め、属州を細かく割り、税を物で取り、ディオクレティアヌスの最高価格令で物の値段まで決めようとした。皇帝は兵の中の第一人者ではなく、ひれ伏して拝む相手になった。3世紀の混乱をくぐり抜けたローマは、別の国に作り変えられて4世紀を迎える。

この時代の史料は乏しい。同時代の歴史家ヘロディアヌスは238年までしか書いておらず、そのあとは後世の短い要約や、信用の置けない『ヒストリア・アウグスタ』に頼るほかない。近年は、「3世紀の危機」という言い方そのものを見直す研究者もいる。混乱の度合いは地域によって大きく違い、北アフリカや東方の一部の都市は、この時代にも繁栄を続けていたからである。崩れかけたのは、帝国の全体というより、皇帝という地位の重みだったのかもしれない。

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