できごと

七年戦争

Seven Years' War
1756年 – 1763年
期間を持つできごと重要度 4
1756年

概要

ヨーロッパから北米・インドまで戦場になった。最初の世界規模の戦争と呼ばれ、英仏の勝敗が両大陸を決める。

本文

18世紀の半ば、ヨーロッパの大国の争いは二つあった。一つは中央ヨーロッパの陸の争いである。1740年、プロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、オーストリアの豊かな地方シュレージエンを奪った(オーストリア継承戦争)。オーストリアのマリア・テレジアは、これを取り返すことを誓っていた。もう一つは海の向こうの争いで、イギリスとフランスが北アメリカとインドで、植民地と交易の主導権を争っていた。

1756年、ヨーロッパの同盟の組み合わせが入れ替わった。それまで200年以上敵同士だったオーストリアとフランスが手を結び、ロシアもオーストリアに付いた。孤立したプロイセンはイギリスと組んだ。外交革命と呼ばれる。三つの大国に囲まれたフリードリヒは、先手を打つことにした。1756年8月、プロイセン軍は隣のザクセンに攻め込んだ。七年戦争の始まりである。

七年戦争の参戦国 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;bo
七年戦争の参戦国 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;boWikimedia Commons Gabagool · CC BY 3.0

北アメリカでは、戦いはそれより前に始まっていた。オハイオ川の流域をめぐって、イギリスの植民地とフランスの勢力がぶつかり、1754年には若い民兵の将校だったジョージ・ワシントンが、フランス側との小競り合いを起こしている。北アメリカのイギリス植民地の人々は、この戦争をフランスと先住民との戦争と呼んだ。

ヨーロッパの戦場で、フリードリヒは何度も敵を破った。1757年の秋、ロスバッハでフランスとドイツ諸侯の軍を、ロイテンでオーストリア軍を、続けて打ち破った。だが国力の差は大きかった。1759年、クーネルスドルフでロシアとオーストリアの連合軍に大敗し、フリードリヒは一時、すべては失われたと書き送るほど追い詰められた。翌年にはロシア軍がベルリンに入った。

1748年、アーヘンの和約締結後のヨーロッパ
1748年、アーヘンの和約締結後のヨーロッパWikimedia Commons P. S. Burton · CC BY 3.0

プロイセンを救ったのは、思いがけない出来事だった。1762年1月、ロシアの女帝エリザヴェータが死んだ。跡を継いだピョートル3世はフリードリヒを崇拝していて、すぐに講和を結び、奪った土地を返した。ピョートルはその年のうちに妻に退けられ、妻は女帝エカチェリーナ2世になるが、ロシアが戦争に戻ることはなかった。プロイセンでは、これをブランデンブルク家の奇跡と呼んだ。

戦争の勝ち負けをはっきりと決めたのは、ヨーロッパの外だった。イギリスでは政治家ピットが戦争を指導し、ヨーロッパではプロイセンに金を出して戦わせ、自国の力は海と植民地に注いだ。1759年、イギリス軍はフランス領カナダの中心ケベックを、崖をよじ登る奇襲で落とした。両軍の指揮官はともにこの戦いで死んだ。同じ年、イギリス海軍はフランスの艦隊を相次いで破った。インドでは、1757年にイギリス東インド会社のクライヴがベンガルの太守の軍を破り(プラッシーの戦い)、1760年にはフランスの拠点を攻めて、インドでのフランスの力をくじいた。1762年には、スペイン領のハバナとマニラまでイギリス軍が奪った。

プラッシーの戦いに関わる図版:Lord Clive meeting with Mir Jafar after the Battle of Plassey
プラッシーの戦いWikimedia Commons Francis Hayman · Public domain

1763年2月、二つの講和条約が結ばれた。パリ条約で、フランスはカナダとミシシッピ川より東の土地をイギリスに譲り、北アメリカの領土のほとんどを失った。スペインはハバナを返してもらう代わりにフロリダをイギリスに譲った。ほぼ同じとき、プロイセンとオーストリアも講和し、シュレージエンはプロイセンのものとして残った。7年戦って、ヨーロッパの地図はほとんど変わらなかった。

変わったのは海の向こうだった。イギリスは北アメリカとインドで優位に立ち、のちの大英帝国の土台ができた。だが代償も大きかった。戦争で国の借金はほぼ倍に膨らんだ。イギリスは、植民地を守る費用は植民地の人々も負担すべきだとして、北アメリカの植民地に新しい税をかけた。植民地の人々は、自分たちの代表のいない議会が決めた税だとして反発した。反発はボストン茶会事件を経て、1776年の独立の宣言にいたる(アメリカ独立宣言)。

アメリカ独立宣言に関わる図版:United States Declaration of Independence
アメリカ独立宣言Wikimedia Commons original: w:Second Continental Congress ; reproduction: William Stone · Public domain

フランスは、イギリスへの仕返しの意味もあって、アメリカの独立戦争を助けた。だが、それで財政はさらに傾いた。借金を返す手立てを探して、1789年、王は175年ぶりに三部会を開くことになる(フランス革命)。北アメリカの森の小競り合いから始まった戦争が、20年あまりのうちに、二つの革命につながっていった。

動画(2)

115 プロイセンとオーストリア 世界史20話プロジェクト第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第115講「プロイセンとオーストリア」
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