ハルシャ王の北インド統一
概要
グプタ朝の崩壊後、北インドを一時的にまとめた。玄奘が訪れて、その宮廷と大規模な施しの会を記録している。死後、統一はまた崩れる。
場所
27.05°N 79.92°E · インド・ウッタル・プラデーシュ州
関わった人(1)
ハルシャ王AD590年–AD647年 · 王本文
4世紀から5世紀にかけて北インドを治めたグプタ朝(グプタ朝の黄金時代)は、6世紀に入ると西北から侵入したエフタル(エフタルの侵入)に痛手を負い、地方の王たちが次々と自立して、まとまりを失っていった。ガンジス川の流域には、マウカリ朝、後期グプタ朝、東のガウダなどの王国が並び立ち、互いに争っていた。その中で、デリーの北のターネーサルを本拠とするプシュヤブーティ家が力を伸ばしていく。
ハルシャ王(ハルシャヴァルダナ)は、この家の王の次男として生まれた。王位を継いだのは兄のラージヤヴァルダナだった。ところが606年ごろ、姉妹のラージヤシュリーが嫁いでいたマウカリ朝の王が殺され、彼女は捕らわれた。兄は救いに出て敵を破ったが、東のガウダの王シャシャーンカに欺かれて殺された。ハルシャは16歳で王位を継いだ。

若い王は、まず逃げ延びていたラージヤシュリーを探し出した。王の伝記を書いた宮廷詩人バーナは、彼女が森の中で火に身を投げようとしていたところを、ハルシャが間一髪で救ったと描いている。ハルシャはマウカリ朝の都だったカナウジを手に入れて新しい都とし、ここからガンジス川流域の王たちを従えていった。
統治は41年におよんだ。支配の範囲は、西はパンジャーブから東はベンガルの近くまで、北インドの大部分に及んだとされる。ただし、その多くは服属した王に領地を任せる緩やかな結びつきで、グプタ朝の最盛期のような強い中央の支配ではなかった。王はたえず各地を巡り、陣営で政務を見たという。

南へ勢力を広げる試みは成功しなかった。デカン高原の前期チャールキヤ朝の王プラケーシン2世が、ナルマダー川のあたりでハルシャの軍を退けている。チャールキヤ朝の碑文は、この勝利を誇らしげに刻んでいる。ハルシャの北インド、プラケーシンの南、という並び立ちは、この時代のインドの形をよく表している。
この王の姿を最も生き生きと伝えるのは、唐から来た僧の玄奘である(玄奘の西域行)。玄奘は640年代の初めにハルシャに迎えられ、その記録を『大唐西域記』に残した。王は仏教を厚く敬い、カナウジで各地の学僧を集めた大きな論争の会を開いて、玄奘に大乗の教えを説かせたという。また5年に一度、ガンジス川とヤムナー川の合流するプラヤーガで、75日にわたって仏・太陽神・シヴァに供養し、僧やバラモン、貧しい人々に施しをする大会を開いた。積み上げた財宝を残らず配り終えると、身につけていた衣や宝石まで与え、最後は妹のラージヤシュリーから古着を借りて着た、と玄奘は書いている。

ハルシャは自ら筆をとる文人でもあった。宮廷の恋を描いた『ラトナーヴァリー』『プリヤダルシカー』と、仏教の説話をもとにした『ナーガーナンダ』という三つの戯曲が、王の作として伝わっている。仏教の学問の中心だったナーランダー僧院(ナーランダー僧院の創建)も王の保護を受けた。仏教を重んじながら、ヒンドゥーの神々への祭祀もやめなかったところに、当時のインドの王のあり方が見える。
王は唐とも使節を交わした。玄奘の話を聞いた唐の太宗は使節を送り、ハルシャもこれに応えた。しかし647年ごろ、唐の使節の王玄策が到着したときには、ハルシャはすでに亡くなっていた。跡継ぎを残さなかったため、臣下の一人が王位を奪い、唐の使節団を襲った。王玄策はいったん逃れ、チベットの吐蕃とネパールから兵を借りて引き返し、この簒奪者を捕らえて唐へ連れ帰ったと中国の史書は伝える。
ハルシャの死とともに、まとまりはまた崩れた。その後の北インドでは、カナウジをめぐってプラティーハーラ朝・パーラ朝・ラーシュトラクータ朝が長く争う。カナウジは、それを押さえた者が北インドの覇者とみなされる都になった。ハルシャの国は一代で終わったが、カナウジを北インドの中心に押し上げたのはこの王だった。
ハルシャについて分かることの多くは、バーナの伝記と玄奘の記録という、王を称える立場の人の書いたものに頼っている。気前の良い施しの話も、どこまで実際の姿を伝えているかは割り引いて読む必要がある。それでも、二人の書き手が別々の立場から同じ王を描いたことで、7世紀前半の北インドは、前後の時代よりずっとはっきり見える。