ロンドン万国博覧会

概要
ハイド・パークに、鉄とガラスで、長さ563メートルの温室。水晶宮。9か月で建て、600万人が来た。イギリスの人口の3分の1。蒸気機関、機関車、電信、コルト拳銃、コ・イ・ヌール、印度の象牙の玉座。「万国の産業の作品」。アルバート公が仕切った。利益で自然史博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館。産業革命の勝利宣言。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ヴィクトリア女王AD1819年5月24日–AD1901年1月22日 · 開会した本文
1840年代の終わり、イギリスは産業革命の先頭を走っていた。工場、鉄道、蒸気船、電信。その成果を一つの建物に集めて世界に見せようという構想を進めたのは、ヴィクトリア女王の夫、ドイツ生まれのアルバート公だった。王立技芸協会の会長だったアルバート公は、協会の会員で役人のヘンリー・コールとともに計画を練った。フランスは1798年から国内の産業博覧会を開いていたが、イギリスが目指したのは、世界のすべての国の産業の作品を集める「万国」の博覧会だった。
会場はロンドンのハイド・パークに決まった。建物の設計は公募にかけられ、二百数十の案が集まったが、どれも採用されなかった。委員会が自ら考えた煉瓦の案は、巨大で、閉幕後に取り壊すには不向きだと批判された。そこへ現れたのが、ジョゼフ・パクストンである。デヴォンシャー公爵の庭師頭で、チャッツワースの館に巨大な温室を建てた経験を持っていた。パクストンは鉄道会社の会議の最中に、手元の吸い取り紙に案を描いたと伝えられる。鉄とガラスでできた、途方もなく大きな温室だった。

建物は、鉄の柱と梁、木の桁、それに30万枚ほどのガラス板でできていた。同じ形の部品を工場で大量に作り、現地で組み立てる。工事は1850年の夏に始まり、翌年の初めにはほぼできあがった。長さはおよそ563メートル、幅はおよそ124メートル、中央の翼廊の高さは33メートルほどあった。敷地に立っていたニレの大木は、切り倒さずに翼廊の中に取り込んだ。雑誌『パンチ』はこの建物を「水晶宮」と呼び、その名が定着した。数年前にキュー植物園に建てられた硝子の温室と同じく、鉄とガラスの時代を象徴する建物だった。
1851年5月1日、ヴィクトリア女王が開会を宣言した。女王はその日の日記に、私たちの生涯で最も偉大で輝かしい日の一つだ、と書いている。会期は10月15日までの5か月半で、延べ600万人あまりが訪れた。イギリスの人口の3分の1近い数にあたる。入場料は初めは高かったが、やがて1シリングで入れる日が設けられ、地方の労働者たちも鉄道の割引切符で押し寄せた。トマス・クックは鉄道会社と組んで団体旅行を企画し、多くの人を会場へ運んだ。3年前の1848年には大陸で革命が相次ぎ、ロンドンでも大群衆の集会が警戒されていた。地方から押し寄せる労働者が騒ぎを起こすのではと案じる声もあったが、会期を通じて大きな混乱は起きなかった。

展示品は10万点を超え、出品者は1万数千に及んだ。半分ほどがイギリスとその植民地、残りが外国からだった。展示は原料、機械、製品、美術の部門に分けられ、審査員が優れた出品にメダルを与えた。巨大な蒸気ハンマー、水圧機、機関車、模様を自動で織るジャカード織機、電信機、写真機。アメリカからは、マコーミックの刈り取り機と、コルトの回転式拳銃が来た。部品を規格どおりに作って組み立てるアメリカの製法は、イギリスの人々を驚かせた。インドからは、前年に女王に献上された巨大なダイヤモンド、コ・イ・ヌールが展示され、象牙を彫った玉座も並んだ。
会場には有料の水洗便所が設けられ、使用料は1ペニーだった。これを80万人以上が使ったとされる。英語で用を足すことを婉曲に「1ペニーを使う」と言う表現は、ここから来たという説がある。会場ではまた、アメリカの錠前師ホッブズが、それまで開けられないとされていたイギリスの錠前を公開の場で開けてみせ、話題になった。

博覧会は大きな成功を収め、18万ポンドを超える利益が出た。アルバート公の発案で、そのお金でロンドン南西のサウス・ケンジントンに土地が買われ、そこに博物館や学校が建てられていった。いまのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、自然史博物館、科学博物館、ロイヤル・アルバート・ホール、インペリアル・カレッジがその地に並ぶ。人々はこの一帯を「アルバートポリス」と呼んだ。
博覧会には、華やかな展示の陰にある問題も映っていた。展示された製品を作った工場では、長時間の労働と低い賃金が続いていた。植民地からの品々は、帝国の富と支配を誇るものでもあった。それでも、世界の産業を一堂に集めて比べるという発想は、各国の工業化を刺激した。展示を見たイギリスの識者の中には、外国の製品の質の高さに危機感を抱き、技術教育の必要を説く者もいた。

閉幕後、水晶宮は解体され、ロンドン南郊のシデナムに場所を移して、さらに大きな姿で1854年に再建された。音楽会や展示会の場として80年あまり親しまれたが、1936年の火事で焼け落ちた。
1855年にはパリが万国博覧会を開き、以後、万博は国の力と技術を競う場となった。日本が初めて正式に参加したのは1867年のパリ万博で、それから100年あまりのちの1970年には、日本自身が大阪万博を開くことになる。そのすべての始まりが、ハイド・パークの巨大な温室だった。博覧会の5年前に穀物法の廃止で自由貿易へ舵を切ったイギリスにとって、それは世界の工場としての自信を示す祭りでもあった。