アスキア・ムハンマド
概要
ソンガイを最大にし、トンブクトゥの学問を保護した。晩年は息子に退位させられ、島に幽閉される。
所属
ソンガイ帝国関わったできごと(1)
アスキア・ムハンマドのソンガイ1493年 · 当人本文
生まれた年は分からない。本名はムハンマド・トゥーレ(あるいはシッラ)とされ、ニジェール川の中流に広がるソンガイの王ソンニ・アリに仕える将軍だった。ソンニ・アリは、かつてマリ帝国の支配下にあったトンブクトゥやジェンネを攻め取り、ソンガイを西アフリカの大国にした王である。ただ、イスラームを形だけ受け入れて土地の古い信仰も保ち、トンブクトゥの学者たちを迫害したことで、ムスリムの記録では暴君として描かれている。
1492年、ソンニ・アリが死に、息子が跡を継いだ。ムハンマドはこの新王にイスラームへの帰依をはっきりさせるよう迫り、拒まれると兵を挙げた。1493年、戦いに勝って王位に就く(アスキア・ムハンマドのソンガイ)。「アスキア」は称号で、ここから始まる王朝はアスキア朝と呼ばれる。この称号の由来について、ソンニ・アリの娘たちが「彼が王になるはずがない」と叫んだ言葉から来たという話があるが、これは後に作られた語呂合わせとされる。
王家の血を引かない簒奪者だった。正統性を、別のところに求める必要があった。それがイスラームだった。1496年から翌年にかけて、彼はメッカへ巡礼した。かつてのマンサ・ムーサの巡礼と同じく、大勢の供と黄金を連れた旅だったと記録されている。途中のカイロで、アッバース家の名目上のカリフから、西アフリカのムスリムを治める者としての称号と、そのしるしを授けられた。王としての権威を、土地の古い神々ではなく、イスラーム世界の中心から得たことになる。

帰国すると、ソンニ・アリに追われていた学者たちを呼び戻し、トンブクトゥの学問を保護した。北アフリカの法学者アル=マギーリーに、ムスリムの王はどう国を治めるべきかを書簡で問い、その答えを政治の指針にしたことも知られる。トンブクトゥのモスクには各地から学生が集まり、写本が売り買いされた。1510年頃にこの町を訪れた旅行者レオ・アフリカヌスは、ほかのどの商品よりも書物の商いで大きな利益が上がる、と書き残している。
行政も作り直した。国をいくつかの州に分けて長官を置き、財務や農業、水運などの役職を分けた。それまで戦のたびに集めていた兵とは別に、常備の軍を持った。交易路の要所に監督を置き、市場の度量衡をそろえた。そのうえで、周りへ兵を出した。南のモシの王国に対しては聖戦として戦い、東のハウサの諸都市(ハウサ諸都市とカノ)やサハラのアイルの地方まで力を及ぼした。版図はこのとき最も広くなる(ソンガイ帝国の最盛期)。
晩年、目が見えなくなった。そのことを隠していたが、息子たちに知られた。1528年、息子のアスキア・ムーサが父を退位させ、自ら王になった。老いた王は宮廷にとどめ置かれ、その後に王位を継いだ甥のときには、ニジェール川の中の島に送られて幽閉された。数年後、別の息子アスキア・イスマーイールが王になると、父を島から連れ戻した。王家は兄弟と従兄弟のあいだで殺し合いを繰り返し、そのあいだ、退いた王はただ見ているしかなかった。1538年、ガオで死去した。
彼が建てさせたとされる墓は、日干し煉瓦を積み上げた高さ17メートルほどの角錐形の建物で、ガオにいまも残っている。2004年に世界遺産に登録された。
彼が作ったソンガイは、その後半世紀あまり続いた。だが1591年、サハラを越えて来たモロッコの軍の鉄砲の前に敗れ、崩れていく(ソンガイ帝国)。アスキア・ムハンマドは、西アフリカの国がイスラームを統治の骨組みとして取り込んだ時代を代表する王として記憶されている。トンブクトゥに残る膨大な写本の多くは、彼が保護した学問の流れの上にある。