ジェームズ・モンロー
概要
ヴァージニア。独立戦争でトレントンで負傷。ジェファーソンの弟子。フランス公使としてルイジアナ購入を交渉した。5代大統領。「好感情の時代」。ミズーリ協定(1820年、奴隷州と自由州を1対1で)、フロリダ購入、モンロー宣言。宣言を書いたのは国務長官ジョン・クインシー・アダムズ。7月4日に死んだ(ジェファーソンとアダムズと同じ日)。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
モンロー宣言AD1823年12月2日 · 宣言した本文
1758年4月28日、ヴァージニア植民地のウェストモアランド郡に生まれた。父は大工仕事もこなす中くらいの農園主で、子どものころに両親を相次いで亡くし、叔父の世話になった。1774年にウィリアム・アンド・メアリー大学へ入ったが、2年足らずで学業を捨てて大陸軍に加わった。アメリカ独立宣言の年である。

1776年12月26日、トレントン。ワシントンが雪の夜にデラウェア川を渡ってヘッセン傭兵を襲った戦いで、18歳の中尉モンローは先頭で砲台に突っ込み、肩に銃弾を受けた。弾は動脈を傷つけ、居合わせた医者がいなければ失血で死んでいたとされる。後にロイツェが描いた「デラウェア川を渡るワシントン」で、ボートの上で旗を持つ若者はモンローだと言われてきた(画家が意図したかどうかは分からない)。従軍中にフランスから来たラファイエットと親しくなり、生涯の友になった。
1780年からはトマス・ジェファソンのもとで法律を学んだ。ジェファーソンはこの年下の弟子を政治の道へ導き、二人の師弟関係はジェファーソンの死まで続いた。モンローは大陸会議の議員(1783〜86年)になり、ヴァージニアの憲法批准会議では、強い中央政府を恐れてアメリカ合衆国憲法の制定に反対した。1789年の下院選挙では友人マディソンと争って敗れたが、翌年上院議員になった。

1794年、ワシントン大統領は彼をフランス公使に任じた。革命のさなかのパリでモンローは熱狂的に歓迎され、彼自身もフランス共和国への共感を隠さなかった。投獄されていたトマス・ペインを釈放させたのはこのときである。だがイギリスと条約を結んで関係を修復しようとしていた本国の政府にとって、親仏の公使は邪魔になり、1796年に呼び戻された。モンローは帰国後に自分の弁明を書いた長い本を出し、ジョージ・ワシントンを怒らせた。
1799年から1802年にかけてヴァージニア知事を務めた。1800年、リッチモンド近郊で奴隷のゲイブリエルが反乱を企てて露見すると、知事として首謀者たちの処刑を認めた。奴隷制の害を口にしながら、自分も生涯多数の奴隷を所有し続けた。この矛盾はヴァージニアの農園主の政治家に共通のもので、モンローもそこから抜け出さなかった。

1803年、大統領になったジェファーソンは、ミシシッピ川の河口ニューオーリンズを買い取る交渉のため、モンローを特使としてパリへ送った。着いてみると、駐仏公使ロバート・リヴィングストンにナポレオン側から思いもよらない申し出が出ていた。ニューオーリンズだけでなく、ルイジアナ全部を売るという。二人は本国に問い合わせる時間もないまま約1500万ドルで買う条約に署名し、合衆国の国土はほぼ2倍になった(ルイジアナ買収)。ハイチの反乱で西半球の植民地経営に見切りをつけたナポレオン・ボナパルトの都合が大きく、手柄の大半をどちらの交渉者に帰すかは当時から争われた。
その後イギリス公使になり、水兵の強制徴用をやめさせる条約を結ぼうとしたが、肝心の点を取れず、ジェファーソンは条約を議会に出さなかった。1811年、マディソン大統領の国務長官になった。1814年8月、イギリス軍がワシントンを焼くと、陸軍長官も兼ねて首都の守りを立て直した。この戦争の始末が、彼を次の大統領候補に押し上げた。

1816年の選挙で大統領に当選した。翌年、ニューイングランドを長く巡ると、かつて連邦党の牙城だったボストンの新聞が「好感情の時代」と書いた。連邦党は戦争に反対したことで支持を失って消えつつあり、政党は事実上ひとつになった。1820年の選挙では対立候補が立たず、選挙人の票を1票を除いてすべて得た。その1票は「満場一致はワシントンだけに許すため」に別の候補へ入れられた、という話が広く知られているが、投票した選挙人自身はモンローの政治への不満を理由に挙げており、美談は後から付いたものとされる。
ただ、好感情の時代の下では亀裂が広がっていた。1819年には投機と銀行の引き締めで恐慌が起きた。同じ年、ミズーリを州として認めるかどうかで議会が割れた。ミズーリを奴隷州にすれば、上院の自由州と奴隷州の釣り合いが崩れる。引退していたジェファーソンはこの争いを「夜中に鳴る火事の鐘」にたとえ、連邦の弔鐘だと書いた。1820年、ミズーリを奴隷州、メインを自由州として同時に入れ、以後ルイジアナ買収地のうち北緯36度30分より北には奴隷州を作らないという妥協が成り、モンローはこれに署名した。この線は30年あまり持ちこたえ、やがて南北戦争へ続く争いの中で破られる。

外交では、国務長官ジョン・クインシー・アダムズが働いた。1818年、アンドリュー・ジャクソンが命令の範囲を越えてスペイン領フロリダに攻め込み、スペインの砦を落とした。閣内には処罰を求める声もあったが、アダムズはこれを交渉の材料に変え、1819年、アダムズ・オニス条約でスペインはフロリダを手放し、太平洋岸までの国境も定まった。
1823年12月2日、議会への年次教書の中で、モンローはヨーロッパ諸国が南北アメリカに新たな植民地を作ることや、独立したばかりの中南米の国々に干渉することを認めない、と述べた。その代わり合衆国もヨーロッパの争いには加わらない。ラテンアメリカ諸国の独立を神聖同盟がつぶしにかかることへの警戒が背景で、イギリスが共同宣言を持ちかけたのを、アダムズが単独で出すべきだと説いた。文案の多くもアダムズの手による。当時の合衆国にはこれを力で守る海軍はなく、実際にはイギリス海軍が大西洋を押さえていたから成り立った宣言だった。モンロー宣言と呼ばれるようになったのは後のことで、19世紀末からは合衆国が中南米に介入するための口実として読み替えられていく。

1825年に退任すると、長い公職の間に積もった借金が残った。公使時代の経費の精算を議会に何年も求め、ようやく一部が払われたが、ヴァージニアの農園は手放すことになった。1830年に妻エリザベスが亡くなると、ニューヨークの娘夫婦の家に移った。1831年7月4日、そこで死んだ。73歳。独立記念日に死んだ大統領は、1826年の同じ日に死んだジョン・アダムズとジェファーソンに次いで3人目になった。
独立戦争を戦った世代の最後の大統領である。1824年、解放された黒人をアフリカへ移す事業を進めていたアメリカ植民協会は、西アフリカに作った入植地の町に彼の名を付けた。それがいまのリベリアの首都モンロビアになる。モンロー自身もこの事業を支持していた。奴隷制を廃するのではなく、解放された人々を国の外へ出そうとした計画であり、その町の名はモンローの時代の限界もそのまま伝えている。