チャンパとミーソン
概要
ベトナム中部にあった、ヒンドゥーを奉じる海洋国家になる。赤煉瓦の塔が谷に並ぶ。ベトナム戦争の爆撃で多くが失われた。チャム人はいまも少数民族として暮らしている。
場所
15.76°N 108.12°E · ベトナム・クアンナム省
本文
チャンパは、いまのベトナム中部の海岸にあった国になる。中国の史書は、2世紀の末に漢の支配から自立した国を「林邑」と記し、のちに「占城」と呼んだ。インドの文化を受け入れ、シヴァを中心とするヒンドゥーの神々を祀り、王はサンスクリットの名と碑文を残した。
国を作ったチャム人は、オーストロネシア語族の言葉を話す。台湾から東南アジアの島々、太平洋へ広がった人々と同じ系統で、北の紅河の平野に住むベトナム人(キン族)とは言葉の系統が違う。

チャンパは一つの王国というより、海岸の平野ごとにある王国の連合に近かったと考えられている。山が海に迫る細長い土地で、平野は小さい。かわりに海があった。中国と、東南アジアの島々と、インド洋を結ぶ航路の途中にあり、沈香や象牙、香木を扱う交易で栄えた。時に海賊として周辺の沿岸を襲ってもいる。干ばつに強く早く実る稲は、ここから宋に伝わり、占城稲の導入として長江流域の農業を変えた。
ミーソンは、海岸から内陸に入った山あいの谷にある、チャンパの聖地になる。4世紀の末、バドラヴァルマン王がここに木造のシヴァの社を建てたと碑文にある。それが焼けたあと、7世紀に煉瓦で建て直され、以後13世紀ごろまで、歴代の王がここに祠堂を建て続けた。

赤い煉瓦の塔が谷に並ぶ。塔の表面には、神々や踊り子、花や葉の文様が煉瓦そのものに彫り込まれている。積み上げてから彫ったと考えられている。
煉瓦の積み方が特徴的で、煉瓦と煉瓦のあいだに、モルタルの跡がほとんど見えない。何で接着したのか、いまも分かっていない。木の樹脂を使ったという説、煉瓦と同じ土を薄く塗ってから焼いたという説などがある。修復のときに同じ強さで積み直すことができず、手を焼いている。

チャンパは周りの国と戦い続けた。南西のクメールとは攻め合い、1177年には水軍でアンコールの隆盛の時代のアンコールを奪って略奪した。のちにジャヤヴァルマン7世がそれを押し返し、ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トムを造営している。
13世紀の末には、元のフビライが海から大軍を送り込んできた。チャンパの王は都を捨てて山に退き、ゲリラ戦で抵抗し続け、元軍は引き揚げた。14世紀の後半には、王の制蓬峩(チェー・ボン・ガー)がベトナムの都タンロン(いまのハノイ)を何度も攻め落としている。チャンパは押されるだけの国ではなかった。
だが長い目で見れば、チャンパは北の大越に少しずつ押されていった。10世紀に中国から自立したベトナムは、人口の増える平野から南へ領土を広げた。1471年、首都ヴィジャヤ(いまのクイニョン付近)が陥落し(ヴィジャヤの陥落)、多くの人が殺され、捕らえられた。そのあとも南の地域に小さな王国が残ったが、19世紀の前半、阮朝の成立の明命帝のもとで完全に併合された。
ミーソンの塔は、森の中に埋もれていた。19世紀の末にフランスの調査団が見つけ、20世紀の初めに70を超える建物が記録された。
ベトナム戦争で、谷は解放戦線の拠点になった。1969年、アメリカ軍の爆撃で、とりわけ見事とされた大きな祠堂をはじめ、多くの塔が崩れた。いま比較的よく残るのは20ほどとされる。周辺には不発弾が残り、調査と修復は爆弾の処理から始まった。1999年に世界遺産に登録されている。

チャム人はいま、ベトナムとカンボジアで少数民族として暮らしている。ベトナム中南部にはいまもヒンドゥーの祭りを守る人々がいる一方、多くはのちにイスラームに改宗した。ニャチャンのポー・ナガル塔や、ファンラン近くのポー・クロン・ガライ塔など、各地に残る祖先の塔では、いまも祭礼が行われている。チャム暦の7月に開かれるカテの祭りには、塔の前に人々が集まり、神々と祖先の王に供物をささげる。ミーソンの谷は、その祖先の時代の、いちばん大きな記憶の場所になる。