できごと

インドネシア独立宣言

Indonesian independence
AD1945年8月17日
重要度 4
インドネシア独立宣言に関わる図版:Indonesia declaration of independence 17 August 1945
Indonesia declaration of independence 17 August 1945 Wikimedia Commons Frans Mendur (also Frans Mendoer) (1913 – 1971) · Public domain

概要

日本の降伏の2日後に宣言し、旧宗主国と4年戦って認めさせた。

場所

バタヴィア
-6.21°N 106.85°E · インドネシア・ジャカルタ

関わった人(1)

スカルノAD1901年6月6日–AD1970年6月21日 · 宣言

本文

1945年8月17日の朝、ジャカルタ(当時の名はバタヴィア)のペガンサアン東通り56番地にあるスカルノの自宅の前で、短い文書が読み上げられた。読んだのはスカルノ、隣に立っていたのはハッタである。日本が降伏を表明してから2日後のことだった。

この島々は、17世紀にオランダ東インド会社がバタヴィアに拠点を置いて以来(オランダ東インド会社のバタヴィア)、300年あまりオランダの支配を受けてきた。19世紀には農民に輸出用の作物を作らせる強制栽培制度が敷かれ(ジャワの強制栽培制度)、20世紀に入ると、オランダ語の教育を受けた現地の若者の間から民族運動が生まれる。スカルノはその代表で、1920年代から何度も逮捕され、流刑を経験していた。

東インドの地図(ニコラース・フィスヘル)
東インドの地図(ニコラース・フィスヘル)Wikimedia Commons Nicolaes Visscher II · Public domain

1942年、日本軍がオランダ軍を破ってジャワを占領した。日本は資源と労働力を戦争に動員する一方、スカルノやハッタを協力者として表に立て、郷土防衛義勇軍(ペタ)という現地人の軍隊も作らせた。戦況が悪化した1945年には独立準備のための調査会を設け、6月1日、スカルノはその席で国家の原理となる「パンチャシラ」(五つの原則)を演説している。

8月15日に日本が降伏すると、独立の時期をめぐって対立が起きた。スカルノとハッタは日本側との調整を経た手順を考えていたが、急進的な青年たちはそれを待たずに宣言すべきだと迫った。16日の未明、青年たちは二人をジャカルタ郊外のレンガスデンクロックへ連れ出し、即時の宣言を求めた。夜になって二人はジャカルタへ戻り、日本海軍の前田精少将の公邸で、明け方までかかって宣言文がまとめられた。

インドネシア独立宣言文の原文
インドネシア独立宣言文の原文Wikimedia Commons Public domain

宣言は数行しかない。「我々インドネシア国民は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力の移譲などに関する事項は、慎重に、かつできるだけ短期間に実行される」。署名は「インドネシア国民の名において、スカルノ/ハッタ」。日付は西暦ではなく、日本の皇紀に合わせた「05年」で書かれている。翌18日に憲法が定められ、スカルノが大統領、ハッタが副大統領に選ばれた。

だが宣言は、旧宗主国が認めるものではなかった。9月末から連合国を代表して英軍が上陸し、その後ろからオランダの行政官が戻ってきた。11月、東ジャワのスラバヤで英軍と青年の部隊が激しく戦い、多くの死者を出した。この戦いの始まった11月10日は、いまも「英雄の日」とされている。降伏した日本兵の一部が独立軍に加わり、武器も流れた。

独立宣言前に祈るスカルノ
独立宣言前に祈るスカルノWikimedia Commons Frans Mendur (also Frans Mendoer) (1913 – 1971) · Public domain

オランダは交渉と武力を使い分けた。1946年から翌年にかけて協定を結んで共和国の存在をジャワとスマトラの一部に限って認めたが、1947年7月と1948年12月の2度、「警察行動」と称して大規模な軍事作戦を行った。2度目の作戦では首都ジョグジャカルタが占領され、スカルノとハッタは捕らえられる。共和国側は山間部に退いてゲリラ戦を続けた。

流れを変えたのは国際世論だった。国連の安全保障理事会がオランダを非難し、とくにアメリカが、戦後復興のための援助を見直すと圧力をかけた。共和国側が1948年に起きた共産党の蜂起を自力で鎮圧していたことも、反共を重んじるアメリカの判断に影響したとされる。1949年のハーグ円卓会議を経て、12月27日にオランダは主権を移譲した。ただし西ニューギニアはこのとき引き渡されず、インドネシアに移るのは1960年代になってからである。

インドネシア独立宣言の地、独立公園で遊ぶ子供たち(ニョマン・ヌアルタ設計の記念碑)
インドネシア独立宣言の地、独立公園で遊ぶ子供たち(ニョマン・ヌアルタ設計の記念碑)Wikimedia Commons 世書 名付 · CC BY 2.0

この4年間の戦いの死者は、インドネシア側で10万人前後とされるが、数字には大きな幅がある。オランダ軍による住民の処刑などの暴力も、長く本国では語られなかった。

オランダ政府がインドネシアの独立の日付を1945年8月17日だと政治的・道義的に受け入れると表明したのは、2005年のことである。オランダの公式の立場では、それまで独立は主権を移譲した1949年12月だった。独立宣言から60年が経っていた。

スカルノ大統領の肖像
スカルノWikimedia Commons Onbekend /Anonymous · Public domain

その後のインドネシアは、1955年にアジア・アフリカ会議を主催して新興国の旗手となり(バンドン会議)、1965年の政変(インドネシアの九・三〇事件)を経てスハルトの長い統治に入る。8月17日はいまも独立記念日で、宣言文の原稿は国の宝として保存されている。同じ1945年の9月2日には、北のベトナムでも独立宣言が出された(ベトナム民主共和国の独立宣言)。日本の敗戦の直後に、東南アジアの各地で同じことが起きていた。

動画(1)

【東南アジア④】マレーシア&インドネシアの歴史中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY東南アジアシリーズの第4回。マレーシアとインドネシアの歴史

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