人物

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

Victor Emmanuel II
AD1820年3月14日 – AD1878年1月9日(享年57)
イタリア王国重要度 4

概要

サルデーニャ王、初代イタリア王。1849年、父が退位して継いだ。憲法を守った唯一のイタリアの君主。カヴールに任せ、ガリバルディからナポリを受け取った。「祖国の父」。粗野で、狩りと女が好きで、フランス語で話した。1870年、ローマに入った。ローマのヴィットーリアーノ(巨大な白い記念碑)は、彼のため。

関わったできごと(2)

ガリバルディの千人隊AD1860年5月11日 · 受け取ったイタリア統一AD1861年 · 王

本文

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、北イタリアのサルデーニャ王国の王で、1861年に統一されたイタリア王国の最初の王になった人物である。イタリアでは「祖国の父」と呼ばれる。統一を設計したのは首相のカヴール、南イタリアを切り取ったのはジュゼッペ・ガリバルディだった。この王の役割は、その二人を使い、二人がまとめたものを王冠の下に受け取ることだった。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の肖像
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の肖像Wikimedia Commons Eugène Disdéri · Public domain

1820年、トリノで、のちの国王カルロ・アルベルトの長男として生まれた。サルデーニャ王国という名だが、中心は島ではなく、アルプスの麓のピエモンテとサヴォイアにあった。宮廷の言葉はフランス語で、日常にはピエモンテの方言を話した。王子は勉強よりも馬と狩りと軍隊を好み、標準のイタリア語は生涯うまく話せなかったと言われる。1842年、従妹にあたるオーストリアの大公女アデライデと結婚した。

1848年、ヨーロッパ中に革命が広がると(1848年革命)、父カルロ・アルベルトは王国に憲法を与え、イタリアからオーストリアを追い出そうと戦争を始めた。だが翌1849年3月、ノヴァーラでオーストリア軍に大敗し、父はその夜のうちに退位して国を去った。29歳の誕生日を迎えたばかりの息子が、敗戦の後始末とともに王位を継いだ。

1848年革命に関わる図版:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot
1848年革命Wikimedia Commons Horace Vernet · Public domain

ここで彼は、一つの選択をした。オーストリアは講和の条件を和らげる代わりに、父の出した憲法を廃止するよう求めたとされる。新しい王はこれを受け入れず、憲法を残した。1848年の革命でイタリア各地の君主が出した憲法は、反動の中で次々に取り消されたが、サルデーニャの憲法だけが残った。国内外の自由主義者がこの小国に望みを託すようになり、王は「誠実な王」というあだ名で呼ばれた。もっとも、講和交渉の実際についてはのちに脚色された部分もあると指摘されている。

1852年、王はカヴールを首相に任じた。二人は気が合わなかった。カヴールは冷静な経済通の貴族で、王は粗野で衝動的な武人だった。それでも王は、議会の信任を受けた首相に政治を任せるという立憲君主の役割を、おおむね守った。1855年、修道会の多くを廃止する法案をめぐって教会と争っていたとき、王の母、王妃、弟が数週間のうちに相次いで死んだ。聖職者たちは神罰だと言い立てたが、王は最後には法案に署名した。

カミッロ・カヴール
カミッロ・カヴールWikimedia Commons Antonio Ciseri · Public domain

カヴールはクリミア戦争に兵を送って列強の会議に席を得、フランスのナポレオン3世とひそかに同盟を結んだ。1859年、フランスとともにオーストリアと戦い、王自身もソルフェリーノと並んで戦われたサン・マルティーノの戦いで軍を率いた。この戦いの惨状を見た一人のスイス人が書いたのが、『ソルフェリーノの思い出』である。サルデーニャはロンバルディアを得て、中部イタリアの小国も住民投票で合流した。

1860年、ガリバルディが義勇兵千人を率いてシチリアに上陸し、ナポリまで攻め上った(ガリバルディの千人隊)。共和主義者のガリバルディがそのまま南に別の国を作るのではないかと恐れたカヴールは、王の軍を教皇領を通って南へ送った。10月、ナポリの北のテアーノ近くで、王とガリバルディは馬上で出会った。ガリバルディは王に征服地を差し出し、自分は一袋の種と少しの金だけを持って小島へ帰ったと伝えられる。

ガリバルディの千人隊に関わる図版:Partenza da Quarto
ガリバルディの千人隊Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1861年3月17日、イタリア王国が宣言された(イタリア統一)。王は「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世」とはならず、サルデーニャ王としての「2世」を名乗り続けた。新しい国はピエモンテの法と役人で治められ、南部の人々の中には、統一ではなく併合されたと感じた者が少なくなかった。

その3か月後にカヴールは急死し、残りの統一は王と後任の首相たちの手で進んだ。1866年、プロイセンとオーストリアの戦争に加わってヴェネツィアを得た。イタリア軍自身は陸でも海でも敗れており、プロイセンの勝利のおかげだった。1870年、普仏戦争でスダン(セダン)の戦いに敗れたナポレオン3世が倒れ、ローマを守っていたフランス軍が引き揚げると、イタリア軍は9月20日にローマの城壁を破って入城した。教皇ピウス9世はこれを認めず、ヴァチカンに閉じこもって「囚われ人」を名乗った。王は教皇の離宮だったクイリナーレ宮殿に住んだ。

スダン(セダン)の戦いに関わる図版:Nap sedan von Wilhelm Camphausen
スダン(セダン)の戦いWikimedia Commons Wilhelm Camphausen · Public domain

王妃を亡くしたのち、王は長年の愛人で兵士の娘だったローザ・ヴェルチェッラーナと、身分違いの結婚をした。狩りと女性を好み、大きな口ひげをたくわえ、宮廷の儀礼を嫌った。そうした飾らなさが、かえって兵士や民衆に好かれた。

1878年1月9日、ローマで熱病に倒れ、57歳で死んだ。教皇は臨終の秘跡を授けることを許した。その教皇もひと月後に世を去っている。遺体はローマのパンテオンに葬られた。

ルイージ・カラビアーナ
ルイージ・カラビアーナWikimedia Commons Bruno Longhi-Bartezzaghi · Public domain

ローマの中心ヴェネツィア広場には、この王を記念する白い大理石の巨大な建造物、通称ヴィットリアーノが1911年に除幕された。周りの古い街並みにそぐわない大きさから、ローマの人々はこれを「タイプライター」や「ウェディングケーキ」とあだ名している。いまは第一次世界大戦の無名戦士の墓がここにある。

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