アウラングゼーブの治世
概要
版図は最大になり、財政と宗教政策で各地が離れた。最大に広がった時が、崩れはじめる時でもある。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
関わった人(1)
アウラングゼーブAD1618年11月3日–AD1707年3月3日 · 当人本文
1657年の秋、ムガル皇帝シャー・ジャハーンが重い病に倒れた。タージ・マハルの完成を建てさせた皇帝である。死んだという噂が広がると、4人の息子が帝位をめぐって争い始めた。父が後継ぎと見ていたのは長男のダーラー・シコーで、ヒンドゥーの聖典をペルシア語に訳させるほど他の宗教に開かれた学者肌の人だった。三男のアウラングゼーブは、デカンの総督として軍を率いてきた実戦の人で、厳格なスンナ派の信仰を持っていた。
アウラングゼーブは弟のムラードと組んで北へ攻め上がり、1658年、アグラの近くのサームーガルでダーラーの軍を破った。病から回復していた父をアグラ城に閉じ込め、組んでいた弟も捕らえた。翌年ダーラーを捕らえると、イスラームに背いた者として処刑した。次兄のシュジャーは東へ逃れて消息を絶ち、ムラードも数年後に処刑された。シャー・ジャハーンは1666年に死ぬまで城から出られなかった。城の窓からタージ・マハルを眺めて過ごしたと伝わる。

アウラングゼーブは「アーラムギール(世界を掴む者)」と名乗り、49年間在位した。曾祖父のアクバルが築いた帝国は、宗教の違いを越えてラージプートの諸侯やヒンドゥーの官僚を取り込むことで保たれていた。アウラングゼーブは、統治をイスラーム法に沿ったものにしようとした。イスラーム法の判例集『アーラムギール法典』を編ませ、宮廷での音楽をやめさせたとされる。1679年には、アクバルが1564年に廃止していた非ムスリムへの人頭税(ジズヤ)を復活させた。
ヒンドゥー寺院の破壊も命じた。1669年にはヴァーラーナシーの寺院が、翌年にはマトゥラーの大寺院が壊され、跡にモスクが建てられた。一方で、皇帝がヒンドゥーの寺院やバラモンに土地を寄進した文書も残っている。高位の官職に就いたヒンドゥーの数は、アクバルの時代よりかえって増えたという研究もある。寺院の破壊は信仰の問題というより、反乱した土地への罰だったとする見方と、宗教的な不寛容の現れとする見方があり、評価はいまも割れている。現代のインドの政治でも、この皇帝の名はしばしば争点になる。

各地で抵抗が起きた。デカンの西部では、シヴァージーがマラーターの勢力をまとめ、ムガルの港町スーラトを略奪し、1674年には王を名乗った。北西のマールワールではラージプートとの戦争が起き、皇帝の四男アクバル(曾祖父と同じ名)が父に背いてラージプートやマラーターと結んだ。パンジャーブでは、1675年にシク教の9代グル、テーグ・バハードゥルがデリーで処刑され、その子のグル・ゴービンド・シングは1699年に信徒を戦う共同体カールサーとしてまとめた(シク教の始まりはグル・ナーナクとシク教の成立)。
1681年、アウラングゼーブは息子を追ってデカンへ下り、そのまま二度と北へ戻らなかった。1686年にビージャープル、1687年にゴールコンダの王国を滅ぼし、1689年にはシヴァージーの子サンバージーを捕らえて処刑した。版図はムガル史上最大になり、南端を除くインド亜大陸のほとんどに広がった。だがマラーターは王を失っても降らず、山の砦と素早い騎兵で戦い続けた。皇帝は砦を一つずつ囲んでは落とし、落とした砦はまた奪われた。デカンでの戦いは26年に及び、宮廷と大軍が野営を続けるだけで国庫は尽きていった。

財政の行き詰まりは、帝国の仕組みそのものを揺るがした。ムガルの貴族は、位に応じて土地の税を受け取る権利を与えられ、その代わりに兵を養っていた。征服したデカンの貴族を取り込むために位を大盤振る舞いした結果、配る土地が足りなくなった。貴族たちは収入を確保できず、忠誠は揺らいだ。
皇帝自身は質素な暮らしで知られた。帽子を縫い、コーランを書き写して、その代金で自分の墓の費用をまかなったと伝えられる。1707年3月、デカンのアフマドナガルで88歳で死んだ。死の前に息子たちに宛てた手紙には、自分はよそ者として来て、よそ者として去る、自分が何をしてきたのか分からない、という意味の言葉が書かれている。遺言どおり、エローラ近くのフルダーバードの屋根もない質素な墓に葬られた。

死後、息子たちの間でまた帝位争いが起き、皇帝が次々に代わった。各地の総督は事実上独立し、マラーターは北へ勢力を伸ばした。1739年にはペルシアのナーディル・シャーがデリーを略奪し(ナーディル・シャーのデリー略奪)、1757年にはプラッシーの戦いでイギリス東インド会社がベンガルを握る。死後50年のうちに、ムガル帝国の皇帝はデリーとその周りだけを治める名目の存在になっていた。最も広がった時代が、そのまま崩れの始まりでもあった。