ルムンバの殺害
概要
独立から2か月余りで解任された初代首相が、外国の関与のもとで殺された。独立が独立で終わらないことの例になる。
場所
-4.44°N 15.27°E · コンゴ民主共和国
関わった人(1)
パトリス・ルムンバAD1925年7月2日–AD1961年1月17日 · 当人本文
1961年1月17日、アフリカ中部のコンゴで、前の首相パトリス・ルムンバが殺された。コンゴがベルギーから独立して、まだ7か月しかたっていなかった。
コンゴは、19世紀の末、ベルギー国王レオポルド2世の私有地として支配された(コンゴ自由国)。ゴムの採集を強いられた住民は、ノルマを果たさないと手を切り落とされるなど、苛烈な扱いを受けた。1908年にベルギー国の植民地となってからも、住民の教育は初等教育にとどめられ、独立のとき、大学を出たコンゴ人は数えるほどしかいなかったとされる。

パトリス・ルムンバは1925年、コンゴの中部に生まれた。宣教師の学校で学び、郵便局の事務員やビールの会社の営業として働きながら、新聞に文章を書いた。1958年、民族や地域を超えてコンゴ全体の独立を目指す政党を作り、その先頭に立った。ガーナで開かれたアフリカ諸国の人々の会議にも出席し、クワメ・エンクルマらと知り合った。演説がうまく、人々を引きつける力があった。
1960年、アフリカで多くの国が独立した(アフリカの年)。ベルギーは、独立を急かされるかたちで、わずか半年足らずの準備でコンゴの独立を認めた。5月の選挙でルムンバの党が最も多くの議席を得て、ルムンバは34歳で首相になった。

6月30日、首都レオポルドヴィル(いまのキンシャサ)で独立の式典が開かれた。ベルギー国王ボードゥアンは、演説でレオポルド2世の事業をたたえた。続いてコンゴの大統領が穏やかな挨拶をした。そのあと、予定に無かったルムンバが立ち上がり、植民地支配のもとでコンゴ人がどんな目に遭ってきたかを語った。私たちは、黒人だからという理由で、朝も昼も夜も、皮肉や侮辱や殴打に耐えてきた、と。会場のコンゴ人たちは喝采し、ベルギー人たちは凍りついた。この演説が、ベルギーや西側の国々の警戒を招いたとされる。
独立から1週間もたたないうちに、軍の兵士たちが、ベルギー人の将校に対して反乱を起こした。ベルギーは自国民を守るとして軍を送った。7月11日、銅やコバルトの鉱山が集まる南部のカタンガ州が、モイーズ・チョンベのもとで独立を宣言した。鉱山を握るベルギーの企業と、ベルギー軍がこれを後押しした。豊かな鉱山を失えば、新しい国は立ちゆかない(コンゴ動乱)。

ルムンバは国連に助けを求めた。国連は平和維持の部隊を送ったが、カタンガを力で連れ戻すことはしなかった。業を煮やしたルムンバは、ソ連に飛行機やトラックの提供を求めた。冷戦のさなか、アメリカと西側の国々は、ルムンバがコンゴをソ連の側に引き込むのではないかと恐れた。
9月、大統領カサヴブは、ルムンバを首相から解任した。ルムンバも大統領を解任すると応じ、政府は二つに割れた。数日後、陸軍の参謀長だった若い軍人モブツが権力を握り、ルムンバは首都の自宅に軟禁された。11月、ルムンバは支持者の多い東部の町を目指して家を抜け出したが、途中で捕らえられた。

1961年1月17日、ルムンバは二人の仲間とともに、飛行機でカタンガに移された。機内でも、着いてからも、激しく殴られた。その夜、カタンガの指導者たちが見守るなか、ベルギー人の将校が指揮する銃殺隊によって撃たれた。遺体は埋められたあと掘り出され、ベルギー人の警官が酸で溶かして処分した。その警官は、ルムンバの歯を持ち帰っていた。死が公表されたのは、1か月近くあとだった。
ルムンバの死は、世界中に衝撃を与え、各地で抗議が起きた。アフリカやアジアの多くの人々にとって、彼は、独立を求めて西側の大国に殺された殉教者になった。

アメリカの中央情報局(CIA)が、ルムンバの暗殺を計画していたことは、1975年のアメリカ議会の調査で明らかになっている。毒を使う計画まであった。ただ、実際の殺害に直接手を下したわけではない、とされる。ベルギーでは、2001年に議会の調査委員会が、ベルギーの政府に道義的な責任があったと結論づけ、翌年、政府は謝罪した。
コンゴでは、その後も混乱が続いた。1965年、モブツが再び権力を握り(モブツの独裁)、国の名をザイールと改めて、30年あまり独裁を続けた。西側は、冷戦の味方としてその独裁を支えた。

2022年6月、ベルギーは、警官の遺族から押収していたルムンバの歯を、ブリュッセルでの式典を経て、ルムンバの家族に返した。歯はキンシャサに運ばれ、霊廟に納められた。殺されてから61年後のことだった。独立を果たしても、それが本当の独立になるとは限らない。ルムンバの死は、その例として語られ続けている。