物語

『アラブが見た十字軍』で読む十字軍

出てくるできごと AD1095 – AD1291
できごと 10人物 2国 3
この物語に出てくる図版:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont
この物語に出てくる十字軍の呼びかけから。Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont Wikimedia Commons Jean Colombe · Public domain

概要

同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。

この物語について

同じ200年は、襲われた側からはどう見えたのか。ヨーロッパの教科書が「十字軍」と呼ぶ遠征を、エルサレムやダマスクスやカイロの人びとは、何と呼び、どう記憶したのか。

『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ、1983年、日本語版1986年)は、アラブ側の年代記と回想録だけを材料に、十字軍の200年を語り直す。著者はベイルートに生まれた新聞記者で、レバノン内戦のさなかの1976年にパリへ移った。のちに小説家として知られ、フランスのアカデミー・フランセーズの会員にもなる。この本は、その最初の本だった。のちに彼は、人を一つの帰属だけで定義することがどれほど人を殺すかを論じた評論も書いている。歴史家イブン・アル=アシールの年代記、ダマスクスの年代記作者たち、サラディンに仕えた書記の記録、そして一人の武人の回想録が、語り手として並ぶ。

まず、呼び名が違う。当時のアラブ側に「十字軍」にあたる言葉は無い。彼らはフランク人(イフランジュ)の襲来として記録した。「十字架の戦争」という言い方がアラビア語で広まるのは、ずっと後の19世紀になってからとされる。

本の序章は、1099年の夏のバグダードから始まる。陥落したエルサレムから逃れてきた人びとを連れて、ダマスクスの法官が、カリフの宮廷で助けを訴えた。宮廷の人びとは同情してみせたが、誰も兵を出さなかった。本が繰り返し指摘するのは、このイスラーム世界の分裂である。十字軍の呼びかけの数年前、セルジューク朝の大スルタンが死に、その帝国は息子たちと将軍たちの争いで割れていた。エルサレムを持っていたのはエジプトのファーティマ朝で、セルジューク側とは宗派も違い、互いを敵として見ていた。フランク人は、その隙間に入ってきた。

第1回十字軍のエルサレム占領に関わる図版:Taking of Jerusalem by the Crusaders, 15th July 1099
第1回十字軍のエルサレム占領Wikimedia Commons Émile Signol · Public domain

見えるものも違う。1098年のマアッラの虐殺では、シリアの町マアッラが落ち、住民が殺され、飢えた兵が死体を煮て食べたと伝えられる。この話はフランク人自身の年代記にも書かれている。アラブ側では、フランク人を人食いとする記憶が何世紀も残った。翌1099年の第1回十字軍のエルサレム占領では、町の住民が大量に殺され、ユダヤ教徒は会堂ごと焼かれたと伝えられる。

それでも、すぐに反撃は始まらなかった。シリアの小さな君主たちは、隣のムスリムの君主に対抗するために、フランク人と手を組むことさえした。流れが変わるのは、1144年のエデッサ伯領の陥落からになる。北メソポタミアの将軍ザンギーが、十字軍国家の一つを落とした。息子のヌールッディーンが、聖戦の言葉で人びとをまとめる。ヌールッディーンは、エルサレムを取り戻した日にアル=アクサー・モスクに置くための説教壇を、アレッポの職人に作らせた。彼はその日を見ずに死んだが、説教壇はのちに本当にエルサレムへ運ばれた。そのもとで台頭したクルド人の武将が、サラディンだった。彼は1171年にファーティマ朝を終わらせ、エジプトとシリアを一つにして、アイユーブ朝を開いた。

1187年7月のヒッティーンの戦いで、サラディンはエルサレム王国の軍を、水の無い丘の上に追い込んで破った。10月にはサラディンのエルサレム奪還がなる。88年前とは扱いがまるで違った。住民は身代金を払えば町を出ることを許され、払えない者の多くも放たれたと伝えられる。本は、同じ都市の二つの陥落を並べて読ませる。ただ、第三回十字軍のアッコン攻囲では、イングランド王リチャードが、身代金の交渉がまとまらないことを理由に、捕らえたムスリム兵およそ2700人を処刑している。

ヒッティーンの戦いに関わる図版:Saladin Guy
ヒッティーンの戦いWikimedia Commons Matthew Paris · Public domain

この本でいちばん多く引かれる証人は、ウサーマ・イブン・ムンキズである。シリアの城の武人で、長い生涯の終わりに回想録を残した。フランク人の医者が、足の腫れた騎士の足を斧で切り落とし、その騎士はすぐに死んだ、という話を、彼は呆れて書いている。一方で、エルサレムのテンプル騎士団とは親しくつき合い、彼らのいた建物の中で祈ることを許された。そこへ別のフランク人が来て、祈る向きが違うと彼の顔を無理に東へ向けた。騎士団の者たちはその男を引き離し、新しく来た者は作法を知らないのだ、と詫びたという。長く住んだフランク人と、着いたばかりのフランク人は違う、と彼は書いている。豚肉を口にせず、エジプト人の料理人を雇っている年老いたフランク人の騎士の家で、食事をふるまわれた話も残している。二百年のあいだには、土地に根を下ろし、隣人の暮らし方を身につけていく人びとも現れていた。

1204年、第4回十字軍のフランク人は、同じキリスト教の都コンスタンティノープルを襲って略奪した。アラブ側の記録は、それを驚きとともに書きとめている。13世紀のなかば、本当の脅威は東から来た。それより前の1220年代、中央アジアの町々がモンゴルに滅ぼされたとき、歴史家イブン・アル=アシールは、その出来事を書きはじめるまでに何年もためらい、自分が生まれていなければよかったと記している。1258年のバグダードの陥落で、モンゴル軍はアッバース朝のカリフを殺し、町を破壊した。モンゴルを1260年に止めたのは、アイユーブ朝を倒したエジプトのマムルーク軍だった。そのマムルーク朝が、1291年のアッコンの陥落で、フランク人の最後の大きな拠点を落とす。200年の占領は、ここで終わった。

バグダードの陥落に関わる図版:Bagdad1258
バグダードの陥落Wikimedia Commons Sayf al-vâhidî et al. · Public domain

そのあいだには、戦わずに町が渡されたこともある。1229年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、エジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレムを手に入れた。この取り決めは、キリスト教の側からもイスラームの側からも裏切りとして非難された。占領地に暮らす人びとの日常もあった。12世紀末にこの地を旅したアンダルスのイブン・ジュバイルは、フランク人の領地のムスリムの農民が、ムスリムの領主のもとより公平に扱われていることを嘆いている。

サラディンは1193年にダマスクスで死んだ。財産はほとんど残らず、葬儀の費用は借りて賄われたと伝えられる。その名は、むしろヨーロッパの側で早くから敬われた。ダンテは『神曲』で、彼を地獄の入り口の、徳のある異教徒の列に置いている。18世紀のドイツの劇作家レッシングは、寛容な君主として舞台に上げた。1898年にダマスクスを訪れたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、サラディンの墓に大理石の棺を贈った。アラブ世界でサラディンが抵抗の英雄として大きく語り直されるのは、ヨーロッパの植民地支配を受けた19世紀の終わりからになる。

本の結びで、著者は問いを立てる。フランク人はアラブから多くを学び、帰っていった。アラブ世界は勝ったが、その後、内にこもった。十字軍の記憶は、いまもアラブ世界で、西からの侵入の原型として語られる、と。この結びには、現代の政治を過去に読み込みすぎている、という批判がある。研究者の間では、当時のムスリムの多くにとってフランク人は辺境の一つの勢力にすぎず、本ほど大きな傷として受け止められていなかったという見方もある。

この物語は、本が扱ったできごとを並べ直したものになる。本文は写していない。この年表の十字軍の項目は、多くがヨーロッパ側の史料に基づいている。同じ出来事に、もう一つの側から名前が付くとどう見えるか。歴史を誰が書いたかという問いは、物語物語「誰が書き残したか」にもつながっている。

動画(1)

"The Crusades Through Arab Eyes" by Amin Maalouf - Dr. Farish A. NoorLestari Hikmah Malaysia本の読みどころを、アラブ側の史料の性格を含めて解説している

この物語が起きた場所

シベリアの諸集団キプチャク汗国Touaregチャガタイ汗国イル汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国神聖ローマ帝国ハフス朝スウェーデンポーランド王国フランス王国English territoryセルジューク朝マクリアカスティーリャ王国東ローマ帝国カネム=ボルヌハンガリー王国ハドラマウトTeutonic KnightsMerinidesアラゴン王国ブルガール可汗国デンマークマスカットAbdelouadidesシチリア王国ポルトガルセルビアリトアニア大公国スコットランドヴェネツィア共和国教皇領ジョージアTrebizondグラナダ王国エルサレム(2件) 第1回十字軍のエルサレム占領 サラディンのエルサレム奪還2アッコン(2件) 第三回十字軍のアッコン攻囲 アッコンの陥落2クレルモン(1件) 十字軍の呼びかけマアッラト・アン=ヌウマーン(1件) マアッラの虐殺エデッサ(1件) エデッサ伯領の陥落ヒッティーン(1件) ヒッティーンの戦いコンスタンティノープル(1件) 第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪バグダード(1件) バグダードの陥落

できごと10件が起きた8か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はAD1291の版図(この枠に大きく入る38勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと5件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(15)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. ファーティマ朝国AD909年(イフリーキヤでの成立) – AD1171年(サラーフッディーンによる廃止)シーア派のカリフを名乗り、バグダードのカリフと並び立った。カイロを建て、アズハルを開く。地中海とインド洋の交易をつなぐ位置にあった。
  2. セルジューク朝国AD1037年(トゥグリル・ベグの自立) – AD1194年(最後のスルタンの戦死)トルコ系の遊牧民がイランを取り、バグダードのカリフを保護下に置いた。マンジケルトでビザンツを破ってアナトリアを開き、マドラサを各地に建てる。ニザームルムルクが行政を整えた。
  3. 十字軍の呼びかけできごとAD1095年アラブ側の年代記では「フランク人の襲来」になる教皇が聖地の回復を呼びかけた。以後200年、ヨーロッパと西アジアが繰り返しぶつかる。クレルモン
  4. ウサーマ・イブン・ムンキズ人物AD1095年7月4日 – AD1188年本がいちばん多く引く証人十字軍と戦い、十字軍と友人にもなったシリアの武人。90歳を過ぎて書いた回想録が、フランク人を内側から見た数少ない記録になっている。
  5. マアッラの虐殺できごとAD1098年12月アラブ側の記憶に最も深く残った事件降伏した町で数千人が殺された。飢えた十字軍兵が死体を食べたことを、当時のフランク人自身の年代記が記している。アラブ側の記憶に最も深く残った事件になる。マアッラト・アン=ヌウマーン
  6. 第1回十字軍のエルサレム占領できごとAD1099年7月15日住民が大量に殺された。この記憶が、以後900年にわたって双方の側で引かれることになる。エルサレム
  7. サラディン人物AD1137年頃 – AD1193年エルサレムを十字軍から奪い返した。敵からも寛大さを讃えられ、騎士道の理想像として語られる。
  8. エデッサ伯領の陥落できごとAD1144年12月24日反撃の始まり十字軍が最初に建てた国が、ザンギーに奪われた。イスラーム側にとっては反撃の始まりで、ヨーロッパ側にとっては第2回十字軍を呼ぶ知らせになる。エデッサ
  9. アイユーブ朝国AD1171年 – AD1250年(マムルークによる交代)サラーフッディーン(サラディン)が建てた。エジプトとシリアを一つにし、1187年にエルサレムを取り戻す。十字軍の側からも敵として敬われた、数少ない人物になる。
  10. ヒッティーンの戦いできごとAD1187年7月4日水の無い丘に十字軍の主力を誘い込み、一日で壊滅させた。3か月後、エルサレムが開城する。ヒッティーン
  11. サラディンのエルサレム奪還できごとAD1187年同じ都市の奪回。前回と扱いがまるで違う88年ぶりに奪い返した。虐殺を行わなかったことが、敵側の記録にも残る。エルサレム
  12. 第三回十字軍のアッコン攻囲できごとAD1191年7月12日エルサレムを失って四年、イングランドとフランスの王が海から来て、二年囲まれていたアッコンを落とした。獅子心王は捕虜2700人を殺し、サラディンと戦って勝ち、エルサレムには入らずに帰った。アッコン
  13. 第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪できごとAD1204年フランク人が同じキリスト教の都を襲った聖地へ向かうはずの十字軍が、同じキリスト教の都を略奪した。ビザンツはこれ以後立ち直れない。コンスタンティノープル
  14. バグダードの陥落できごとAD1258年もう一つの、はるかに大きい脅威モンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。バグダード
  15. アッコンの陥落できごとAD1291年5月18日追放マムルーク軍が6週間囲み、城壁を崩した。十字軍国家の最後の都市が落ち、200年の海の向こうの王国が終わる。逃げる船に乗れた者は少なかった。アッコン

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