できごと

メッカの征服

Conquest of Mecca
AD630年1月
重要度 5
メッカの征服に関わる図版:Paris, BnF, Supplément Persan 1030 fol. 305v-306r Muhammad and Ali lead destruction of Meccan idols
Paris, BnF, Supplément Persan 1030 fol. 305v-306r Muhammad and Ali lead destruction of Meccan idols Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

ヒジュラから8年。フダイビーヤの休戦をメッカが破り、ムハンマドが1万で来た。メッカは戦わなかった。「行け、お前たちは自由だ」。カアバの360の偶像を倒し、黒石だけ残した。アブー・スフヤーンが改宗した。2年後、ムハンマドは死んだ。

場所

メッカ
21.42°N 39.83°E · サウジアラビア

関わった人(1)

ムハンマドAD570年頃–AD632年 · 入った

本文

630年1月、預言者ムハンマドは1万の兵を率いて、生まれ故郷のメッカに入った。8年前、迫害を逃れて夜陰に紛れて去った町である(ヒジュラ(聖遷))。メッカの支配者たちはほとんど抵抗せずに降伏し、ムハンマドはカアバの神殿に並んでいた偶像を打ち倒した。アラビア半島の宗教と政治の中心が、イスラームのものになった瞬間だった。

メッカは、砂漠の中の交易の町であり、巡礼の町だった。町の中心のカアバには、アラビア各地の部族が崇める神々の像が置かれ、毎年の巡礼の季節には人と物が集まった。町を支配していたのは商人の部族クライシュ族で、ムハンマド自身もその一員だった。610年ごろ、彼が唯一の神アッラーの啓示を受けたと説き始めると、クライシュ族の有力者たちは、自分たちの神々と、巡礼がもたらす富と権威が脅かされると考えて、彼と信徒たちを迫害した。622年、ムハンマドは北のヤスリブ(のちのメディナ)に移り、そこで信徒の共同体を作った。

メディナに移ったムハンマドとメッカのクライシュ族とのあいだには、長い戦いが続いた。624年のバドルの戦いではムスリムが少数で勝ち、625年のウフドの戦いではメッカ側が勝った。627年にはメッカ側が大軍でメディナを囲んだが、ムスリムは町の前に塹壕を掘って守り抜いた。戦いを重ねるうちに、アラビアの諸部族は少しずつムハンマドの側に傾いていった。

ウフドの戦いに関わる図版:The Prophet Muhammad and the Muslim Army at the Battle of Uhud, from the Siyer-i Nebi, 1595
ウフドの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

628年、ムハンマドは巡礼のために信徒を率いてメッカへ向かい、町の手前のフダイビーヤでクライシュ族と休戦の約束を結んだ。10年のあいだ戦わない、ムスリムはその年は引き返し、翌年から3日間だけ巡礼を許される、という内容で、信徒の中には屈辱的だと不満を言う者もいた。だが、この休戦によってムハンマドはメッカに対等の相手と認められ、ほかの部族と自由に同盟を結べるようになった。翌629年、ムスリムは約束どおりメッカで巡礼を行った。

休戦を破ったのはメッカの側だった。629年の末、クライシュ族と同盟していたバクル族が、ムハンマドと同盟していたフザーア族を夜襲し、聖域の近くまで追って殺した。クライシュ族の一部は武器を貸し、襲撃に加わった者もいたという。フザーア族は使者をメディナに送って助けを求めた。事の重大さに気づいたメッカの指導者アブー・スフヤーンは、自らメディナに出向いて休戦を延ばそうとしたが、ムハンマドは答えなかった。

天使とともにメッカへ入城するムスリムたち(『シイェル・イ・ネビー』より)
天使とともにメッカへ入城するムスリムたち(『シイェル・イ・ネビー』より)Wikimedia Commons Public domain

630年1月、断食月ラマダーンのさなかに、ムハンマドはメディナを出た。行き先を伏せたまま進み、途中で同盟部族が加わって、軍は1万に膨らんだ。メッカの北の谷マッル・アッザフラーンに陣を張った夜、ムハンマドは兵の一人一人にかがり火をたかせた。谷を埋める1万の火は、メッカの人々に軍の大きさを思い知らせた。様子を探りに出たアブー・スフヤーンは、ムハンマドの叔父アッバースに連れられて陣に入り、そこでイスラームに改宗したと伝えられる。

ムハンマドはアブー・スフヤーンを町へ帰し、こう告げさせた。アブー・スフヤーンの家に入る者は安全である。自分の家の戸を閉じて中にいる者は安全である。カアバの聖域に入る者は安全である。多くのメッカの人々は家にこもり、町は戦わずに門を開いた。軍は四つの道から町に入った。抵抗があったのは、将軍ハーリド・イブン・アルワリードの部隊が進んだ道だけで、メッカ側の十数人とムスリムの数人が死んだ。

ムスリムが偶像を打ち壊す場面(ウマル・ファッルーフ画)
ムスリムが偶像を打ち壊す場面(ウマル・ファッルーフ画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ムハンマドはカアバに向かい、ラクダに乗ったまま神殿の周りを7度回った。そして神殿の周りに並んでいた360体といわれる偶像を、手にした杖で一つずつ指して倒させながら、「真理が来た。虚偽は消え去った」というクルアーンの句を唱えた。町の主神だったフバルの像も壊された。カアバの内部の壁に描かれていた絵も消されたが、後世の伝えによれば、マリアと幼子イエスの絵だけは残すよう命じたという。カアバの壁にはめ込まれた黒い石は、そのまま聖なるものとして残された。アフリカ出身の解放奴隷で、迫害の時代を耐え抜いた信徒ビラールがカアバの屋根に上り、祈りの呼びかけを響かせた。

それからムハンマドはクライシュ族の人々の前に立ち、私があなたがたに何をすると思うか、と尋ねた。人々が、良いことを、あなたは寛大な兄弟であり、寛大な兄弟の子だから、と答えると、ムハンマドは、行きなさい、あなたがたは自由だ、と言ったと伝えられる。かつて自分と信徒を迫害し、戦場で親族を殺した人々を、彼はほとんど罰しなかった。処刑すべき者として名を挙げられたのは十人ほどで、そのうち何人かはのちに赦された。ウフドの戦いでムハンマドの叔父ハムザの遺体を辱めたとされる、アブー・スフヤーンの妻ヒンドも改宗して赦された。

ジブリール(金色の炎)がムハンマドにアザーンの作法を示し、ビラール・イブン・ラバーハがカアバで礎を呼びかける様子を描いたイスラム細密画
ジブリール(金色の炎)がムハンマドにアザーンの作法を示し、ビラール・イブン・ラバーハがカアバで礎を呼びかける様子を描いたイスラム細密画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この寛大さには、政治の計算もあった。クライシュ族の商人たちは、アラビア全体に通じる交易の網と、統治の経験を持っていた。彼らを殺すより取り込むほうが、生まれたばかりの共同体にとってはるかに得だった。実際、アブー・スフヤーンの一族はやがて新しい国家の中枢に入り込み、息子のムアーウィヤは661年にカリフとなってウマイヤ朝を開く(ウマイヤ朝の成立)。最も遅く改宗した一族が、イスラーム最初の王朝を作ったのである。

メッカを取ったムハンマドは、その直後、南東の遊牧部族ハワージン族とフナインで戦って勝ち、町ターイフを囲んだ。メッカの陥落を見たアラビア各地の部族は、次々にメディナへ使節を送って従った。翌631年には、多神教徒がメッカの聖域に入ることを禁じる啓示が下ったとされる。いまもメッカの聖域には、ムスリムでない者は入ることができない。632年3月、ムハンマドはメッカで生涯ただ一度の大巡礼(ハッジ)を行い、6月にメディナで死んだ。

天使ジブリール(جبريل)から啓示を受けるムハンマド(14世紀,エディンバラ大学所蔵『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画)
ムハンマドWikimedia Commons Rashid-al-Din Hamadani · Public domain

ムハンマドの死後、アラブの軍は半島の外へ出て、東ローマ帝国とササン朝ペルシアの領土を次々に征服していく(イスラムの大征服)。その中で、降伏した町の住民の命と財産と信仰を保障して取り込むやり方は広く行われた。武力を背景にしながら、流血を避けて町を明け渡させたメッカの征服は、そうした征服のやり方の原型の一つとして語られることが多い。イスラームの暦はヒジュラの年を元年とするので、メッカの征服はヒジュラ暦8年の出来事として記憶されている。

同じ時代のできごと

ヘラクレイオスの治世610年大運河の完成AD610年薩水の戦いAD612年コルンバヌスのボッビオAD614年唐の成立AD618年ヒジュラ(聖遷)AD622年アザーンAD7世紀前半イシドルス『語源』AD630年頃
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