ガーナの独立
概要
サハラ以南で最初に独立した。3年後の「アフリカの年」につながる。
場所
5.60°N -0.19°E · ガーナ
関わった人(1)
クワメ・エンクルマAD1909年9月21日–AD1972年4月27日 · 初代首相本文
1957年3月6日の午前0時、アクラの旧ポロ競技場に集まった群衆の前で、イギリスの国旗が下ろされ、赤・黄・緑に黒い星の旗が揚がった。英領黄金海岸が、ガーナとして独立した瞬間である。サハラより南のアフリカで、植民地から独立した最初の国になった。演壇に立った首相クワメ・エンクルマは、ガーナは永遠に自由になったと宣言し、さらに、この独立はアフリカ大陸全体の解放と結びつかなければ意味を持たない、と続けた。
黄金海岸は、その名のとおり、もともと金の産地として知られた土地だった。15世紀にポルトガル人が来航して砦を築き、のちにはオランダ、イギリスなどが海岸に城塞を並べ、大西洋奴隷貿易の積み出し港になった。19世紀にイギリスは海岸部を直轄の植民地とし、内陸の強国アシャンティ王国とは何度も戦争をしたのち、20世紀の初めに併合した。

植民地の経済を支えたのはカカオである。20世紀の初めから栽培が急速に広がり、黄金海岸は世界最大のカカオ産地になった。農民たちは輸出の価格をめぐって何度も買い付けの拒否運動を起こしている。教育を受けた弁護士や商人の層も厚く、アフリカの植民地の中では政治の動きが早く育った土地だった。
エンクルマは1909年、海岸部の村に生まれた。教員になったのち、1935年にアメリカへ渡り、リンカーン大学やペンシルベニア大学で学んだ。皿洗いや船の仕事で学費を稼ぎながら、アフリカ系の知識人たちと出会い、汎アフリカ主義、つまりアフリカの人々が国境を越えて連帯し解放をめざすべきだという考えに強く引かれた。1945年にはロンドンに移り、同年マンチェスターで開かれた第5回汎アフリカ会議の運営に加わっている。

1947年、黄金海岸の穏健な独立運動の団体が、エンクルマを書記長として呼び戻した。翌1948年2月、第二次世界大戦に従軍した退役軍人たちが約束された手当を求めて行進し、警官の発砲で3人が死んだ。これをきっかけにアクラで暴動が広がり、植民地政府はエンクルマを含む運動の指導者6人を一時拘束した。イギリスはこれを機に憲法の改正に動き出す。だがエンクルマは、指導者たちの漸進的なやり方に飽き足らず、1949年に会議人民党を作って独立した。掲げた標語は「自治を今すぐ」である。
1950年、エンクルマは非暴力の「積極行動」を呼びかけ、ストライキと不買運動を組織した。植民地政府は彼を逮捕し、扇動の罪で服役させた。ところが翌1951年、新しい憲法のもとで行われた総選挙で、会議人民党は大勝した。獄中のエンクルマ自身もアクラの選挙区で当選する。総督は彼を釈放して政府の首班に迎えるほかなく、1952年には首相の称号が与えられた。監獄から首相官邸に直行したことになる。

その後の数年で、イギリスとの間で段階的な権限の移譲が進んだ。内陸のアシャンティ地方には、カカオの利益を中央に吸い上げられることに反発し、連邦制を求める勢力もあった。1956年の選挙で会議人民党がもう一度多数を取り、独立の日取りが決まった。隣接する英領トーゴランドも、住民投票の結果、新しい国に加わった。
国名は、中世に西アフリカで栄えたガーナ王国の金と塩の交易のガーナ王国から取られた。かつての王国は、いまのガーナとは別の、ずっと北西の地にあった。それでも、植民地の名前を捨て、アフリカ人が自ら築いた国家の名を選んだことに、意味が込められていた。独立の式典には、アメリカからマーティン・ルーサー・キング牧師夫妻も招かれて出席している。

エンクルマは言葉どおり、ガーナを大陸の解放の拠点にしようとした。1958年にアクラで全アフリカ人民会議を開き、各地の独立運動の指導者を集めた。3年後のアフリカの年には、17か国が独立する。1963年にはアフリカ統一機構の設立の設立に加わり、アフリカ合衆国のような統一を説き続けた。
国内では、別の顔を見せ始めた。1958年に裁判なしで拘束できる法律を作り、反対派を投獄した。1960年に共和国になって大統領に就くと権限を集め、1964年には会議人民党以外の政党を禁じた。ヴォルタ川の大ダムのような大事業は進めたが、カカオの国際価格が下がると財政は苦しくなり、物価が上がった。
1966年2月、エンクルマが北京を訪れていた間に、軍と警察がクーデターを起こした。エンクルマは二度と帰国できず、隣国ギニアに迎えられて暮らし、1972年に療養先のルーマニアで死去した。独立を勝ち取った指導者が、独立後の国をどう治めるかで行き詰まる。同じことが、続く数十年のアフリカの多くの国で繰り返された。
それでも、エンクルマへの評価は時とともに見直されてきた。遺体はのちにガーナに戻され、アクラには記念公園と霊廟が造られた。独立記念日の3月6日は今も国の祝日である。独裁の面を批判する声と、アフリカの解放を最初に掲げた人物として称える声は、ガーナの中でも併存している。国旗の中央の黒い星は、アフリカの自由の象徴として選ばれ、サッカーのガーナ代表は今も「ブラック・スターズ」と呼ばれている。